現代異聞・第一夜『覗き込む女』
隣の個室のドアが開け放たれる。
瞬間──
「──見つけた」
──あの女の声ではない、
──まるで締まりのない、緩みきった声が聞こえた。
凄まじい絶叫が響き渡る。
激しく揉み合うような物音と共に、個室を区切る壁が何度も揺れた。湿った音と硬質な音が同時に鳴る──ぼきん、ぐちゃりと交互に聞こえていたその音もやがて止み、後には無味乾燥な沈黙だけが取り残された。
最後──トイレの水が流れるごぼごぼという音だけが、やけに長く尾を引く。
もう不快な息遣いは聞こえない。
痛みすら伴う激臭も消え去った。
朽ち果てた旅館の中、
俺は何が起きたのかもわからずに立ち尽くす。
汚水が流れ、
何かを引き摺るような音が最後まで聞こえた気もしたが、
それも空気と混じり跡形もなく消え去る。
──何が、
──何があったんだ。
何もわからない。
俺は涙に濡れた瞼を恐る恐るこじ開けた。
隠れたときと何一つ変わらない光景。
ゆっくりとドアから背中を剥がす。もうノックの音が聞こえることはないのだろう──漠然とした予感だが、不思議と安堵の気持ちも湧いてこない。ただひたすらに疲れていた。
座り込むことも出来ず、
反対側の壁にもたれかかって、
俺は不意に視線を上げる──
──ドアの上、
──俺に覆い被さるような影が広がり、
──女の真っ赤な口がゆっくりと開かれて、
「──見つけた」
作品名:現代異聞・第一夜『覗き込む女』 作家名:名寄椋司