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　思い返すに、よくあんな口を利かれて平気だったものだと感心する。
　長い療養生活を脱し、どこかたがが外れていたのだろう。
　結局鍵子の予測は外れ、一年経った今も俺と鍵子との交際は続いている。
「……よく続くよな」
「紘一郎さんの無為な人生がですか？」
「恋人の人生を否定するなよ」
「恋人だから否定するのですよ」
　その論理は間違っている。
　だが必要以上に抗弁することもなく、俺は全身から力を抜いて煤けた天井を見上げた。鍵子と他の男連中が長続きしなかった理由が、噛み締めるように理解できる。
　性格の問題ではない。
　口の悪さも気にしなければ済む話だ。
　最大の問題は──

「──この悪夢は、何とかならないのか？」

　──こいつの周囲にいることで頻発する、怪奇現象だ。
「何とか、と言われましても。寝なければいいだけの話です」
「ずっと寝ないで過ごせってか」
「そのまま死ねば永遠に苦しみから解放されますよ」
「……なるべく俺が生き残れる方策を探してくれ」
「困りましたねえ」
　困るべき部分なのだろうか、そこは。
　何とも言えず苦虫を噛み潰す俺に、鍵子はふと、そう言えば──と話を切り出してきた。
「──紘一郎さん、見かけによらず、随分と信心深いのですね」
「……は？　信心？　俺が？」
　俺は典型的な無宗教だよ、と返すと、
「──でも、夢の中とは言え、お守りなんて持っているんでしょう？」
「……ああ、そのことか」
　納得し、俺はズボンのポケットに手を突っ込んだ。鍵子に言われた通り、夢の中でも持っていたお守りを取り出してみせる。何の変哲もない、そこらの神社に行けば一山幾らで手に入るような代物だ。外側の袋は白く、全体的に薄っぺらい。中には小さく形を整えられた木片が入っていて、表面にはびっしりとお経のようなものが書き連ねてあった。正直意味はわからないし、調べようとも思えない。お守りなんてそんなものだろう。
「婆ちゃんにさ、最近変な夢見るんだって話したら、送ってくれたんだよ。もしものときには守ってくれる、ご利益のあるお守りなんだと」
　効き目があったのかどうかは知らないが、少なくとも俺は夢の中で致命的なことにならずに済んだ。まだ見つかっただけで、追い縋るものの正体を見てしまったわけではないし、ましてや捕まったわけでもない。そういう意味では、もしかしたらこのお守りが俺を助けてくれたのかもしれなかった。
　祖母は信心深い人で、昔は近所の主婦友達に頼まれて簡単な占いのようなこともしていたのだという。藁にも縋る思いではあったが、相談してみて正解だったようだ。一人暮らしを始めて数年、何かと心配してくれる祖母の温和な笑顔を思い浮かべ、胸中で感謝を伝える。
「……ふうん……」
　こちらの差し出したお守りを無遠慮に矯めつ眇めつし、鍵子はへえだのふうんだのと繰り返している。やがて興味をなくしたのか、「もう仕舞っていいですよ」とお守りから視線を外した。
「──毎日同じような悪夢を見る、のでしたよね？」
「あ？　ああ、そう。でも同じっていうか……少しずつ進んでくんだよ、場面が」
　──最初は、ただ旅館の中を彷徨っているだけだった。
　やがて何かに追いかけられるようになり、逃げ場をなくし、追いつかれそうになって──つい昨日、トイレにまで追い詰められたのだ。あともう一回同じ悪夢を見たとしたら、俺は間違いなく捕まってしまうだろう。
　夢の中で捕まった後、現実の俺がどうなるのかはわからない。恐らくろくなことにはならないはずだった。鍵子と付き合っていることで起きる様々な怪奇現象は、基本的に害のあるものばかりだからだ。俺も今まで散々死ぬような目に遭ってきた。それでも別れないのは、稲生物怪録を気取るというより、ただ単に下心故に違いなかった──こんな美人と付き合える機会は二度とないぞ、という意味で。
　人間その気になれば、死ぬ直前までは耐えられるものだ。
「……私に何とかできるかどうかは知りませんが。ひとまず、今晩は紘一郎さんのお部屋にお邪魔してもよろしいでしょうか？」
「──別に構わないけど」
　珍しいこともあるものだ。
　両親が躾に厳しい人らしく、鍵子は滅多に外泊なんてしない。大学に入るまで学校行事以外では旅行をしたこともなかったのだという。何度か家に泊まりに来たことはあったが、それも朝九時までには帰宅するという冗談みたいな条件付きで許可されたものらしかった。
「それでは、今日の六時頃、お伺いします。まさか昼寝している内に悪夢が進行して死んじゃいましたなんて、そんな馬鹿な結末だけは勘弁してくださいね」
「……幾ら俺の神経が図太くても、今この状態で昼寝できる程じゃねえよ」
　それこそただの馬鹿じゃないか。
「いえいえ、紘一郎さんは只者ではない馬鹿ですから」
「……なぁ、お前さ、もしかして俺のこと嫌い？」
「とんでもない。心の底から愛していますとも」
　──馬鹿な子程可愛いと申しますし。
　そんな憎まれ口を叩き、ワンピースの裾を翻して。
　
　──鍵子は、いつものふにゃふにゃとした笑顔を浮かべてみせた。