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現代異聞・第一夜『覗き込む女』

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■ 起 ■


 灰色の、薄汚れた壁が迫ってくる。所々が苔むし、不潔な色に染まった床には瓦礫や木材、焼け焦げた畳、打ち捨てられたままの壷や子供向けのおもちゃなど、様々なものが転がっていた。床材が腐っているのか、場所によっては大きく陥没しているところもある。何十年と放置されたまま歳月の猛威に晒され続け、朽ち果てた建物の内部には埃とかび、そして淀んだ空気の臭いが充満していた。
 周囲は雪山に囲まれ、視界の全てを黒々とした木々と死人の肌のような雪化粧が遮る。空を削り取るように生い茂る枝葉は、先端が尖り、それぞれが不規則に揺らめいては互いに擦れ合い、湿ったざわめきをこぼしていた。気絶しそうな冷気が吹き付けるたびに山林全てが蠢き、その姿を絶え間なく変えているようにすら思う。
 事実、俺はもうこの建物から逃げられない。
 周囲を森に囲まれているせいで、どこに逃げたらいいのかもわからない。背筋にねじ込まれるような焦燥感に突き動かされ、無目的に両足を振り回しているだけのこの逃避行も、だからいつか必ず終ってしまう。それほど体力に自信がある方じゃないし、そうでなかったとしても、筋肉はいつか必ず疲労するのだ。永遠に走り続けられる人間なんて、この世には存在しない。
 息を切らし、激痛を訴える肺を叱咤する。隙あらば止まろうとする足を無理矢理前へと投げ出して、ただひたすらに疾走した。背後から追いすがるものの気配に怯え、みっともないぐらいに泣き喚き、鼻水とよだれを撒き散らしながら走る。
 何に追いかけられているのかはわからない。
 ただ、絶対に追いつかれてはいけないという確信だけがあった。
(──助けて)
 助けて。
 頭の中がその言葉だけで一杯になっていく。
 神様でも仏様でも、家族でも友達でも、助けてくれるなら誰でもいい。今すぐこの恐怖から解放されたい。
 かび臭い空気を掻き分け、建物──廃墟となって久しい旅館の中を走り回る。追い縋る何かの気配が少しずつ背後で膨れあがり、近付いてきているのがわかった。向こうが速いのではなく、俺が少しずつ遅れ始めているのだ。
(──助けて)
 不意に視界へと飛び込んできた扉を開け放つ。飛び込んだ先は男性用のトイレだった。朽ち果て、薄汚れた床を飛び越えて、向かって一番奥の個室へと逃げ込む。鍵をしっかりとかけると、俺は個室の扉に全体重を預けた。これ以上逃げられないなら、閉じこもるしかない。閉じこもって助かるのかどうかはわからないけれど、少なくとも、ここにいる限りは一秒ずつでも命を継ぎ足していけるのだ。
 トイレに、追い縋る何かが入ってくる。
 生臭い吐息、荒い呼吸。ひきつったような笑い声と、重い何かをひきずる金属的な音。
(──助けて)
 ポケットの中からお守りを取り出し、今まで祈ったことのない神様に祈る。
 助けて。
 誰でもいい。
 何でもいい。
 俺を助けてくれるなら、どれだけの金を払ってもいい。十年でも二十年でも働いて返し続ける。一生感謝して何でも言うことをきけと言われたら、喜んで従う。そんなことで今この恐怖から解放してくれるなら、どんな理不尽な命令にだって尻尾を振って隷従できる自信があった。
 助けて。
 助けてくれ。
 助けてください──。
 足音が、生臭い息遣いが、衣擦れの音が、間近に迫ってくる。追い縋る何かもまたトイレに入ってきた──入り口側から順番に、一つずつ扉をノックし、開け放って中を確認している。驚く程緩慢に、まるで俺がここにいることを知っていて嬲るように、丁寧に。
 俺は指の背を噛んで歯の震えを殺し、扉に全体重を預けた。たとえここにいることが知れていたとしても、この扉さえ開かなければ問題ない。相手が根負けするまで何時間でも、何日でもここに籠城してやるのだ。
 ノックの音が少しずつ近付いてくる。
 俺の隠れる個室にも、大量の生ごみを何日も日に曝したような激臭が満ち始めていた。恐怖と嫌悪から込み上げる吐き気を必死で押し殺し、扉に預けた背中、汚物と思しき染みに塗れた靴裏に全霊の力を込める。絶対に開けさせない──絶対に追い縋る何かの姿を目に入れたりしない。何故かそのときの俺には、相手の姿を目にしただけで発狂してしまうだろう確信があった。意味もなく追いかけ回されているだけで、ちらとその姿を見たわけですらないのに、はっきりとそう思える。
 ──これはきっと、幽霊とか化け物とか、そういうものですらない。
 幽霊なら。
 化け物とか妖怪とか悪魔とか、そういうものなら。
 きっと助かる術がある。
 うまく機転を利かせたり、近所の神社やお寺でお祓いしてもらったり、そうやって助かる結末が用意されている。
 でもこれはそんな生温いものじゃない──会っても、見ても駄目だ。理解してはいけない。これがなんなのか理解してしまえば、その瞬間にもう逃げられなくなる、そういう類のものだ。
 隣の個室がノックされる。
 頭の中の混乱は、もう歯止めの利かない状態になっていた。気が付けばごめんなさい、ごめんなさい──と声に出して謝り続けている。大学の講義、両親の顔、友人との飲み会の約束、ゼミの論文、実家の愛犬、色んなものが脳裏を走り抜けては何も残さず消え去っていく。汗が噴き出し、全身が小刻みに震えるのを止められない。無意識に謝罪の言葉を吐き出し続ける喉も、絶対にこんな真似をしてはいけないとわかっているのに止められない。謝っても誰も許してくれない。誰も助けてくれない。でも謝らなきゃいけない気がしてくる。
 重苦しい足音。べちゃべちゃと湿り気を含んだ笑い声。
 背中からぞっとするような冷気が忍び込んでくる。
 腫れ上がり膨張する気配。今まさに、この個室の前まで到達された──到達されてしまった。
 幽霊でも化け物でもない、
 出会ってしまえば助かりようのない、

 理不尽極まりない──不幸としか形容しようのない何かが、迫ってくる。
 
 助けは来ない。何でこんなところで追いかけ回されているのか、それすら思い出せない。心臓が早鐘を打つ。内臓が裏返りそうな程に痛む──目の奥が破れたかのように涙がとめどなく溢れ、鼻水と涎で顔面が汚し尽くされる。知らない誰かが見たら、惨めを通り越して醜いとすら思うだろう──それでも一度蓋の外れた恐怖を押し留める術は俺になく、どれだけみっともなくとも謝り続け、助けを求め続けるしかないのだ。
 笑い声がトイレ中に響く。
 ごとり、と何かを床に投げ捨てたような音が聞こえた。
 外界から侵入する物音はない。枝葉の揺れる音も、鼓膜の奥までへばり付いていたみしみしという家鳴りも、今はまるで聞こえなくなっていた。
 しん──と、沈黙の粉が振りまかれる。
 息が止まりそうな程の重さを伴う静けさ。
 何時間か、あるいは何秒かの時間が過ぎる。
 ごめんなさい、助けてください、と俺の声だけがやけに遠くから聞こえる。もう一人の自分が頭の上から見下ろしているような錯覚に囚われながら、俺は冗漫に引き伸ばされた時間を味わっていた。薄く頼りない扉一枚隔てて、不幸の塊が胸をむかつかせる悪臭を放つ。決して去ることなく、かといって無理に押し入ってくるでもなく、ただ漫然と立ち尽くしている。
 不安に押し潰された胸の奥が痛んだ。