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The El Andile Vision 第3章 Ep. 5

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第3章「叛逆」---Episode.5 運命の一場



 追悼の鐘が鳴り始めた。
 静まり返った広い教会堂の中は、厳粛な空気に包まれていた。こそりとも音を立てる者はない。
 息をするのですら、何やら憚られるかのような、固く緊張した雰囲気が全体に重々しく漂っている。
 中央の祭壇の上には、壮麗な紋を施した長方形の豪奢な棺が安置されており、その中に故ザグレブ・ラファウド・ロシュタットの遺体が横たえられているのだ。
 黒紫の長いローブに身を包んだ司教が、厳粛な面持ちでゆっくりと壇上に進み、祈祷の儀式を行おうとしている。
(――父上……)
 ザーレン・ルードは、最前列で兄の横に座りながら、身じろぎもせず、じっとその棺に視線を注いでいた。
 妥協を許さぬ強固な意志と判断力を備えると同時に、その大いなる寛容さと包容力で民の心を勝ち取り、長年に渡って安定した統治を続けてきた父。
 幼い頃よりずっと、彼は父を心から敬愛し、常にその姿を範と仰いできたつもりだった。
 しかし――
 ザーレンは、ふと嘆息した。
 ……いつからだったろう。
 その、自分の絶対的な父親への信頼感に、ほんの微細な亀裂が生じ始めたように感じたのは。
 父は幼い頃より、彼をよく可愛がってくれた。彼が覚えている限り、少年時代は常にすぐ傍に父がいたような気がする。
 政務のない、自由になる時間の殆どを、父は彼と共に過ごすことに費やしてくれたのだった。
 そして、最初のうちは彼もそれをごく当然のこととして受け止め、何の不思議も抱かなかった。
 しかし、やがて成長するにつれ、少年は、自分やその母の置かれた微妙な立場のことを、何とはなしに周囲の空気から嗅ぎ取るようになった。
 なぜあんなに母がいつも遠慮がちに、時には怯えたような素振りすら見せながら、父の手を取るのか。
 使用人に対してさえも、目を真っ直ぐ合わせようとはしない。言葉も時に震え、途切れがちになる。
 母が美しく、伸び伸びとした姿を見せるのは、自分と二人きりになるときだけだということに気付いたとき、幼いザーレンは驚きながらも、その理由がどこからくるのか、知りたくてたまらなかった。
 一方では、知らない方が良いこともあるのだという警戒心にも似た気持ちが彼の好奇心を抑えようとするのだが、それでもやはり、自分はそのわけを知らねばならないのだという強迫観念の方が打ち勝った。
 そして、彼は知らなくても良かったかもしれないことを、遂に知ってしまった。
 母が、アルゴンの民でないばかりか、遠い北の辺の地よりさすらい流れてきた流浪の民ソル・ファーヴの娘だったということを。
(――異教徒……!)
 その恐ろしい概念は、少年の繊細な心を打ちのめした。
(自分には異教徒の血が流れている――)
 ソル・ファーヴの一族は、古来より獣に神性を見出だし、異形の半獣半身の神ソアヴを崇拝する。
 いわゆる自らの血や肉片を獣に捧げ、獣そのものと交合するという、古来よりの禁忌にまみれた儀式を未だに行い続けているともいわれる。
 大空位時代の後、古代信仰が消え去った混迷の中で、ソル・ファーヴの民は邪教徒として、人々から敵視され迫害を受けた。
 その結果、民は居住区を追われ、流浪の民となった。現在も異端として、聖都府の教皇庁からは、弾圧の対象とされている。
 ザーレンもそのような事柄は教学士からの授業で学んでいた。
 異教徒たちの身の毛もよだつような恐ろしい儀式(イニシエーション)の数々についても……。
 その異教徒の娘が、どのような経緯でこのアルゴンの地に迷い込み、州侯の目に止まることとなったのか。
 詳細はわからぬが、ザグレブ・ラファウドが美しい異教徒の娘に誰よりも強い愛情を傾けたことだけは確かであった。
 父がいかに母を愛していたことか、それは幼いながらもザーレンにはよくわかった。
 と、同時にそんな風に州侯の心を独占する母子に対する周囲からの異常に冷たい視線も。
 そんな父の愛を、母が本当に受け入れていたのかどうか……ザーレンには未だによくわからない。
 ただひとつ確かなことは、母が不幸だったということだ。
 彼女はいつも悲しい目をして、窓の外を眺めていることが多かった。
 そんな母の様子は、成長するにつれ、ザーレンの心に重い陰を落とすようになった。
 ザーレンには、この父と母の関係は、母が亡くなる最後までよくわからぬままであったが、母が亡くなった後は、彼は父との間に一定の距離を保つようになった。
 父に対して含みがあったわけではない。
 しかし、彼の中には何か重いしこりが残って、どうしてもそれを外へ追いやることができないのだった。
 その苦しさから逃れるためには、ある程度父とは距離を置くしかなかった。
 その頃には、周囲にはある勢力図ができあがってしまっており、ザーレンは自ずとその政争の只中に入っていかざるを得なくなった。
 ――果たして、自分には、本当に野心があるのか、ないのか。
 兄ランス・ファロンを押しのけて、州侯の地位につく。この異教徒の血を引く自分、ザーレン・ルードがアルゴンの民を統べる。
 その考えに、全く魅力がないわけではない。
 そう、彼にも人並みの野心はあるということだ。
 ただ、そのために兄を弑してまで、とは考えたことはない。では彼がこの無意味な派閥抗争の中に、身を投じている主なる理由はどこにあるのか。
 それは――
 ユアン・コーク。
 ――彼にとって気がかりな唯一の人物。
 このユアンの危険な野心の萌芽が、ザーレンを彼の対抗勢力として存在させている主な理由であるといえた。
 ザーレンはランス・ファロンとではなく、ユアン・コークと戦っているのだ。
 ユアンを牽制するために。
 州侯の地位を掴むためではなく。
 だが、そのことをわかってくれる者が果たしてどれくらいいるだろうか。
 いやしかし、彼自身もそれが本当に自分の本心かどうか定かに思えないときがあるくらいなのだから、それを他者にわかってくれといっても所詮無理な話なのかもしれない。
「ザーレン。父上とも、これで本当にお別れだな」
 そのとき、不意に傍らから声をかけられて、ザーレンははっと我に返った。
 すぐ傍に、ランス・ファロンの心から父の死を悼む、哀惜に満ちた顔があった。
 まさに感極まりないといった表情……その瞳が微かに潤んでいるのがわかる。
 その表情を見た瞬間、忽ちザーレンの中に複雑な感情が湧き上がった。
(この方は……幸せなお方だ。私もいっそこの方のように、物事を単純に受け入れ、自分の気持ちを素直に表に出して生きていけたら、どんなにいいか――)
 皮肉とも羨望ともつかぬ思いが、ザーレンの胸に一瞬漣を立てていった。しかし彼は表には平静を装った。
「……はい、兄上」
 ザーレンは短く答えると、改めて壇上の司教に視線を戻した。
 司教の祈祷は終わり、代わって、会堂の中に荘重な音楽が流れた。
 司教の合図に従って、全員が立ち上がり、棺に向かって一礼をする。
 同時に後方の扉がゆっくりと開いた。ここから、一般会衆も祭礼に参加できるのである。
 縄で仕切られた会堂の中央付近まで、警備の衛兵に導かれて葬送に参加しようと外で待っていた民衆が、静かに入ってきた。