あおいうみ
ああ。
ここは、どこだ?
僕は、なにをしているんだろう。
潮の香りがする。
「太宰の小説みたいだ」
ああ、それは知ってるよ。
「最後は、」
「入水自殺」
「女と」
「物語の中だけなら未遂だ」
ああ、滑稽だ。
「なら、僕は思い出と」
馬鹿な、話だ。
その浜辺に彼がきたのは、俺が厚手のパーカーを今年初めて通販で注文した日の午後だった。
薄手のカットソーでは肌寒いとはいえ、まだ秋だというのに、彼は襟の綺麗な白いシャツに、ブルーの厚手のニット、さらには黒いダウンジャケットまで着ていた。
ウール素材のパンツの下、砂で汚れたスニーカーが黄色く染まっている。
「どうして、ここへ?」
「歩いていたら」
彼は、決してハンサムではないが、優しい顔だちをしていた。
年齢は年上だろう。25前後だろうか。目の下に深く皺が刻み込まれているのと、目が黄色く濁っていて、年齢が判別できない。
背は俺より低い。ざっと165くらいだ。
泣きそうな顔と、糸くずがたくさんつき、よく見ればほこりをかぶったような服は、まるで浮浪者のような印象を受けた。
「行くところがない」
彼はそう言った。
俺は自分が雇われ店長をしているカフェのサンドイッチを持って行った。
彼にテラス席に座ってもらい、それと白ワインを出す。
「サーモンとチーズのサンドイッチだ」
「…。」
「ワインがいやなら、コーヒーがある」
「…いただきます」
彼はおもむろに食べ始めた。
食べ方は丁寧だ。とても。
ワインをひとくち飲んだ。
グラスの持ち方は、こなれていた。
食事をする姿勢も綺麗だ。
―――どこかの金持ちの息子か?
「おかわりを」
「え?」
「・・・同じものか、肉がいい。」
彼は自分の唇をなぜた。
「金はある。」
ぱちん、と彼のポケットから金色のカードが取り出され、机に置かれる。
「これで、食事を世話をお願いしたい」
「は?」
「お願いだ、…おかわりを」
それが、始まりだった。
「てんちょー、あのひと、不気味なんですけど」
「オーナーに相談して追い払ってくださいよーお客さんが逃げちゃう」
パートの女の子たちは口ぐちに不満を言った。
だが俺は、いつも朝から晩までテラス席に座り、ひたすら食べ物を注文し続ける彼を、追い出すことはできなかった。
20分に一度のペースで、彼は料理を注文する。順番は前菜、スープ、サラダ、魚料理、シャーベット、肉料理と決まっており、常に魚にパンとワインを置いておかないと請求された。
彼は空腹を知らないというふうで、ひたすら食べる。
たまにグラタンやサンドイッチを挟むし、たまにコーヒーを注文された。
彼の注文だけで今までの店の1日の売上を上回るだけの利益があった。
晴れた日は必ずテラスに座り、雨天の日は窓にいちばん近い席を1日中陣取る。
「カードって、本当に使えるの?食い逃げされますよ?」
「あのひと、ずっとお風呂はいってないみたいなんですよ…どこで寝泊まりしてんだろ、こわい」
しかし彼の異常な食事量と、風貌は悪評を呼んだ。
「売上は伸びてますけど、客数は減ってますよ、店長」
「考えてみるよ」
俺が彼を追い出さない理由は、彼に、興味があるからだった。
「なんで、そんなに食べるんだい?」
彼がここに来て5日目。
俺は彼のテーブルにつきっきりで、ワインを注ぐことにした。
彼はワインは1日に1本も空けない。銘柄は俺が最初にサンドイッチと出した「ラクリマクリスティ」。他の白ワインはグラス1杯だけ飲んで、「交換を」と言われる。(出した分は飲みきってくれるから有難い)
「…失恋した」
「失恋?」
彼はローストビーフをナイフとフォークで小さく切り分けながら、呟いた。
「彼女は僕でなく、別のひとが好きになったらしい」
「…つきあっていたのか?」
彼は付け合わせのレタスをフォークでくるりと刺し、口に運ぶ。
ゆっくりとそれを噛みながら、俺を見て深く頷いた。
――太った。すこし。だが、確実に。
がぶり、とミルクロールパンにかぶりついて、彼は唇をなぜながら、うつむいた。
「帰るところがない」
切り分けられたローストビーフの赤い面が、やたら目につく。
なんだろう、どこかこちらまで不安定になるような、そんな雰囲気を彼はずっと纏っていた。
潮騒のにおい。
「家に帰れよ」
「彼女のものがある。見るのは耐えられない」
相当溺愛してたらしい。
「実家は?」
「ない」
ない?
「僕は、医学部を中退した」
そう言って、彼はローストビーフを口に運ぶ。
バルサミコソースを添えていたが、ほとんどつけていない。嫌いだったろうか。
ごくり、とそれを呑みこみ、彼はフォークを置いた。
「父は僕を許さないだろう」
「そんな、」
波の音。
彼はテラス席から海を見やった。いや、もっと、遠く、
「父は、僕に医者になれと」
「だからって、家出か?」
「…いや。」
きらり、と彼のライングラスが波が反射した光にあたって煌めいた。
「母と父が離婚した」
「なら母親のところへ行けばいい」
「母は再婚した。僕はやっかいものだ」
そして、彼はゆっくりと、グラスに少し残ったワインを飲みほした。
「そして、ここでも」
俺は、反論しなかった。
なぜだ?
甘えだ、失恋したなんて、
甘えだ、両親との不仲なんて、
だから、大学をやめたなんて、
甘え、甘えだ、そうだ、
だが、なにが残る?
10日たった。
彼は、初対面のときから比べて、見るからに太っていた。いや、―――むくんでいた。
彼の顔は知らない間に、右頬が額から耳、頬骨にかけてぱっくりと割れ、そこから膿が出てきていた。
「どうしたんだ?」
「さあ…。子供に缶を投げられてね。」
「どこで」
「海で寝ていたら、ね。子供じゃないな、高校生くらいのカップル…」
「なあ」
波の音。潮の香り。彼の体臭。
なあ、わかっているんだろ?
「もう、やめてくれ。お代は全部要らない。カード、切ってないんだ」
「優しいね、店長さん」
彼は笑った。
「次は、サンドイッチを持ってきてほしい。」
自分が醜いことくらい知っている。
指を見ればわかる。太った。苦しい。腹が、いっぱいだ。汚い。体が、顔が、汚れているのは知っている。
だけれども、どうにかして、どうにかして気持ちを保ちたい。
あの店主は甘えるなという目で僕を見る。冷たい目で、迷惑だと、帰ってくれと、さもなくば邪推するような目で、僕を。
ねえ、君。
君。
君とは、だれだったかな?
「オーナー、すみません」
「いいんだよ、悠。なんだい?迷惑な客って」
彼が来て15日目の夜。マフラーが必要になり、冬用のブーツを注文しようかと考えていた矢先、唯一にしてあまり頼りにしたことがない上司がやってきた。
「浮浪者です。開店から閉店までずっとテラスに座ってフルコース食べていくんですよ。カードは押さえてますから、大丈夫ですけど」
「使えるカードなら、ね」
オーナーも皆と同じことを言った。
「ところで、悠。3日後、臨時休業したほうがいい。今年最後の台風が来る。予想進路じゃ直撃だぞ」
「ああ、はい。そのつもりです」
「彼がどうするかは、勝手にしろ。」
ここは、どこだ?
僕は、なにをしているんだろう。
潮の香りがする。
「太宰の小説みたいだ」
ああ、それは知ってるよ。
「最後は、」
「入水自殺」
「女と」
「物語の中だけなら未遂だ」
ああ、滑稽だ。
「なら、僕は思い出と」
馬鹿な、話だ。
その浜辺に彼がきたのは、俺が厚手のパーカーを今年初めて通販で注文した日の午後だった。
薄手のカットソーでは肌寒いとはいえ、まだ秋だというのに、彼は襟の綺麗な白いシャツに、ブルーの厚手のニット、さらには黒いダウンジャケットまで着ていた。
ウール素材のパンツの下、砂で汚れたスニーカーが黄色く染まっている。
「どうして、ここへ?」
「歩いていたら」
彼は、決してハンサムではないが、優しい顔だちをしていた。
年齢は年上だろう。25前後だろうか。目の下に深く皺が刻み込まれているのと、目が黄色く濁っていて、年齢が判別できない。
背は俺より低い。ざっと165くらいだ。
泣きそうな顔と、糸くずがたくさんつき、よく見ればほこりをかぶったような服は、まるで浮浪者のような印象を受けた。
「行くところがない」
彼はそう言った。
俺は自分が雇われ店長をしているカフェのサンドイッチを持って行った。
彼にテラス席に座ってもらい、それと白ワインを出す。
「サーモンとチーズのサンドイッチだ」
「…。」
「ワインがいやなら、コーヒーがある」
「…いただきます」
彼はおもむろに食べ始めた。
食べ方は丁寧だ。とても。
ワインをひとくち飲んだ。
グラスの持ち方は、こなれていた。
食事をする姿勢も綺麗だ。
―――どこかの金持ちの息子か?
「おかわりを」
「え?」
「・・・同じものか、肉がいい。」
彼は自分の唇をなぜた。
「金はある。」
ぱちん、と彼のポケットから金色のカードが取り出され、机に置かれる。
「これで、食事を世話をお願いしたい」
「は?」
「お願いだ、…おかわりを」
それが、始まりだった。
「てんちょー、あのひと、不気味なんですけど」
「オーナーに相談して追い払ってくださいよーお客さんが逃げちゃう」
パートの女の子たちは口ぐちに不満を言った。
だが俺は、いつも朝から晩までテラス席に座り、ひたすら食べ物を注文し続ける彼を、追い出すことはできなかった。
20分に一度のペースで、彼は料理を注文する。順番は前菜、スープ、サラダ、魚料理、シャーベット、肉料理と決まっており、常に魚にパンとワインを置いておかないと請求された。
彼は空腹を知らないというふうで、ひたすら食べる。
たまにグラタンやサンドイッチを挟むし、たまにコーヒーを注文された。
彼の注文だけで今までの店の1日の売上を上回るだけの利益があった。
晴れた日は必ずテラスに座り、雨天の日は窓にいちばん近い席を1日中陣取る。
「カードって、本当に使えるの?食い逃げされますよ?」
「あのひと、ずっとお風呂はいってないみたいなんですよ…どこで寝泊まりしてんだろ、こわい」
しかし彼の異常な食事量と、風貌は悪評を呼んだ。
「売上は伸びてますけど、客数は減ってますよ、店長」
「考えてみるよ」
俺が彼を追い出さない理由は、彼に、興味があるからだった。
「なんで、そんなに食べるんだい?」
彼がここに来て5日目。
俺は彼のテーブルにつきっきりで、ワインを注ぐことにした。
彼はワインは1日に1本も空けない。銘柄は俺が最初にサンドイッチと出した「ラクリマクリスティ」。他の白ワインはグラス1杯だけ飲んで、「交換を」と言われる。(出した分は飲みきってくれるから有難い)
「…失恋した」
「失恋?」
彼はローストビーフをナイフとフォークで小さく切り分けながら、呟いた。
「彼女は僕でなく、別のひとが好きになったらしい」
「…つきあっていたのか?」
彼は付け合わせのレタスをフォークでくるりと刺し、口に運ぶ。
ゆっくりとそれを噛みながら、俺を見て深く頷いた。
――太った。すこし。だが、確実に。
がぶり、とミルクロールパンにかぶりついて、彼は唇をなぜながら、うつむいた。
「帰るところがない」
切り分けられたローストビーフの赤い面が、やたら目につく。
なんだろう、どこかこちらまで不安定になるような、そんな雰囲気を彼はずっと纏っていた。
潮騒のにおい。
「家に帰れよ」
「彼女のものがある。見るのは耐えられない」
相当溺愛してたらしい。
「実家は?」
「ない」
ない?
「僕は、医学部を中退した」
そう言って、彼はローストビーフを口に運ぶ。
バルサミコソースを添えていたが、ほとんどつけていない。嫌いだったろうか。
ごくり、とそれを呑みこみ、彼はフォークを置いた。
「父は僕を許さないだろう」
「そんな、」
波の音。
彼はテラス席から海を見やった。いや、もっと、遠く、
「父は、僕に医者になれと」
「だからって、家出か?」
「…いや。」
きらり、と彼のライングラスが波が反射した光にあたって煌めいた。
「母と父が離婚した」
「なら母親のところへ行けばいい」
「母は再婚した。僕はやっかいものだ」
そして、彼はゆっくりと、グラスに少し残ったワインを飲みほした。
「そして、ここでも」
俺は、反論しなかった。
なぜだ?
甘えだ、失恋したなんて、
甘えだ、両親との不仲なんて、
だから、大学をやめたなんて、
甘え、甘えだ、そうだ、
だが、なにが残る?
10日たった。
彼は、初対面のときから比べて、見るからに太っていた。いや、―――むくんでいた。
彼の顔は知らない間に、右頬が額から耳、頬骨にかけてぱっくりと割れ、そこから膿が出てきていた。
「どうしたんだ?」
「さあ…。子供に缶を投げられてね。」
「どこで」
「海で寝ていたら、ね。子供じゃないな、高校生くらいのカップル…」
「なあ」
波の音。潮の香り。彼の体臭。
なあ、わかっているんだろ?
「もう、やめてくれ。お代は全部要らない。カード、切ってないんだ」
「優しいね、店長さん」
彼は笑った。
「次は、サンドイッチを持ってきてほしい。」
自分が醜いことくらい知っている。
指を見ればわかる。太った。苦しい。腹が、いっぱいだ。汚い。体が、顔が、汚れているのは知っている。
だけれども、どうにかして、どうにかして気持ちを保ちたい。
あの店主は甘えるなという目で僕を見る。冷たい目で、迷惑だと、帰ってくれと、さもなくば邪推するような目で、僕を。
ねえ、君。
君。
君とは、だれだったかな?
「オーナー、すみません」
「いいんだよ、悠。なんだい?迷惑な客って」
彼が来て15日目の夜。マフラーが必要になり、冬用のブーツを注文しようかと考えていた矢先、唯一にしてあまり頼りにしたことがない上司がやってきた。
「浮浪者です。開店から閉店までずっとテラスに座ってフルコース食べていくんですよ。カードは押さえてますから、大丈夫ですけど」
「使えるカードなら、ね」
オーナーも皆と同じことを言った。
「ところで、悠。3日後、臨時休業したほうがいい。今年最後の台風が来る。予想進路じゃ直撃だぞ」
「ああ、はい。そのつもりです」
「彼がどうするかは、勝手にしろ。」