罪
結局、彼女は心の病にかかった。彼女の父親は、当然、僕らを恭子から離そうとしたようだ。家庭裁判まで発展し、教育権は僕が持つことになった。
彼女の狂った目を、僕は今でも覚えている。このことが、僕らの運命を決めてしまったようだった。
それでも、恭子は月に一回、我が子に合うことを許されていた。
そのスキンシップは、まるで恋人のようだった。しかし、それはまさしく一方的なものだったし、我が子は嫌がっているように写った。
そのためか、我が子は僕と会う度に、『愛している』という言葉を求めていた。
それでも、高校一年生の我が子は家にいることが以前より急激に少なくなった。そのことが、僕の心を少しだけ、軽くした。
そうして一年が経った。
恭子の病状が、悪くなっていったのも、この時期だった筈だ。彼女の親は、どこか疲れたような目で、僕に言った。今、恭子は、精神剤をのまなければ、駄目な状況らしく、もう、恭子に会うのは止めてくれ。と。
最後の面談の日だった。その日は、やはりどんよりとした雨雲がかかっていて、ばたばたばたと窓ガラスに当たって跳ね返っていたことを覚えている。
恭子は、僕の家へとやってきた。どうやら、恭子の親が送ってくれたようだが、多分、彼女が、今日は来るなとでも言ったのだろう。
恭子は痩せ細ったようだ。それに様子もおかしい。我が子は、怯えた目で僕を見た。縋るようだった。
リビングに連れて行くと、恭子は、わなわなと肩を小刻みに揺らしていた。
僕は、大丈夫かと彼女に声をかけた。そうして、肩に触れようと手を伸ばした。
彼女は僕の手を払った。これには、僕も衝撃を受けた。一時期はあんなに、あんなに愛しあったのに。彼女は僕を睨みつけた。僕は、あの我が子を引き取った時の目と重なって、怖くなった。
そうして、彼女は我が子に向かって、声を掛けた。
いい子だから、こっちへ来なさい。ママのこと、愛しているでしょう。
それでも、息子は動かなかった。恭子は、苛々していたようだ、僕に向かって、罵声を投げかけた。
みんな、みんなあんたのせいよッ…あなたじゃなければこの子だって…私だけを見てくれたのにぃ…!
そこには明らかなる憎しみと嫌悪が含まれていた。我が子は俯いていた。耐えているようだった。暫くすると、その矛先を息子に向けた。
なんでママの言うことが聞けないの。パパについていったから…なんでママの元に帰って来ないの。…殺してやるッ…殺してやるぅううッ!
台所にあった包丁を取り出して、恭子は僕らに襲いかかってきた。僕はとっさに恭子の腕を蹴った。包丁は僕の手元まで来てしまった。僕の右手は、包丁を握り締め、恭子へと振りかざしていた。
人間の肉の柔らかさと、むせかえる血のにおい、そして一番印象的に目に映ったのは、目の前で眼を見開いている我が子の姿だった。
父さん。
そう叫ばれた。ああ。息子は殺人犯の子というレッテルを背負って生きなければ鳴らないのか。
僕は逃げ出した。息子は止めなかった。
その内、全国区のニュースで大々的にトピックスとして用いられる程までになってしまった。それも、そのはずだ。恭子の親は、大企業の娘なのだから。また、僕のよく知らない人が、あいつはああいうことをすると思っていた、なんて言うのは、本当におかしかった。
それでも、息子は、僕に帰って来てほしいと地上波で訴えていた。そのコメントはいいようにテレビ局に使われていたが。
僕はあれから、恭子の死について考えていた。僕による死。それは彼女にとっては最悪の死だっただろう。僕は今でも、あの時の手の感覚が蘇りそうで怖い。人の生を奪った。たとえ包丁を先に使ったのは恭子であれど、殺したのは僕なのだ。決して償いきれない。
そうして、あれから半年が過ぎて、冬。事件が余りにも進展しないからか、ニュースで大袈裟に扱われることは無くなった。
僕は、『存在しない』人間になった。
―――――…
そして、現在。
僕は、これから死のうと思う。今は息子への想いだけだ。あの頃、僕はあいつが嫌だった。今だって、我が子のせいで恭子の人生も、僕の人生も、狂ってしまったのだから。吐き気がしてしまうほどに嫌だった。でもそれは、僕に息子が余りにも似すぎていたからかもしれない。はっきりしないくせに、自分には見合わない過度なものを求めている。例えば、愛。純粋な愛。息子は僕にそんなものを求めていた。僕も、そうだ。
要するに、僕は自分のことが嫌いなのだ。
そして、息子を恭子から守ったのも、きっと自分を守るためだろう。
結局、僕は自分のことしか考えられない、醜いニンゲンだったのだ。
そろそろ、薬が効き始めただろうか。意識朦朧として、ふわふわしている。ここで薬殺を選んだ辺りが、卑怯な自分にお似合いだ。
除夜の鐘が鳴り響く。
ああ。
息子よ。俊哉。
結局、僕の罪は、なんだったのだろうな。
白く曇っていく。ぼんやりと頭の中に闇が広がっていく―――――・・・。