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ダイヤモンド

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ダイヤモンド
                        深井 紫

           
 富を追う者は欲望という部屋で一瞬だけ光る宝石を手にし、美を追い続ける者は真理の闇の中で永遠に輝き続ける宝石を手にする。

           一 
 一週間前に撒いた人参がやっと出揃って、本葉が三枚ほどになっていた。去年と違ってコート種子を使ったせいか若干の遅れが気になっていたが、三馬力(さんば)の水中ポンプに取り替えたおかげで今年の猛暑でも、なんとかスタートは及第点が取れたとスミオは思った。
 露に濡れた緑の葉もようやく白みかけている空の下では、遠くで黒い土に溶けて見えなかった。東の空の赤みがかった雲の間から、うす紫の光が走り、まだ暗い西の空をもオレンジ色に染めた。その瞬間スイッチが入ったように朝の微妙な音圧がスミオの耳に飛び込んできた。仕事場の引き戸をスライドさせるとグリースの切れたベアリングがガラガラと鳴った。洗い場の奥にある選別場に早足で向かうと、昨夜と同じ状態で横倒しになった猫のミケが虚ろな目でスミオの方を見ていた。しかし、昨夜別れた時のように視線はスミオを見ていなかった。顔の横に置いたネコ缶にも口をつけていなかった。いよいよかな、とスミオは思った背中をさすると「ニャー」と小さく鳴いた。名を呼ぶと小さな声で応答していたが三十分程でその力も無くなってしまった。静かに抱きかかえると、ミケはスミオの方に向き直って微かに声を出した。猫自身が声を出したのか、腹を押されて偶然に音声として発してしまったのかスミオには分からなかったが、結果的にそれがミケの別れの挨拶となった。スミオは涙は出なかった。五日前から死期が近いと分かっていた。食欲もなくなって一日中作業場の中で過ごすようになったし、近所のオス猫のトラがふらりとやって来て、自分のエサを盗み食いしていてもミケはじっと黙って見ているだけだったのだ。
 拾ってきてから結局七年間スミオと一緒に暮らしてきたミケの死に顔は安らかだった。猫としてというより、生き物としてその最期は見事だとスミオは思った。なぜか人生の先輩のようにも思えて、尊敬も感じ、幸せそうな顔を見ていると羨ましくもなった。昼過ぎ、スミオは首輪と一緒に裏の欅の下にミケを埋葬した。
 午後三時を過ぎても太陽は頭の上から遠ざからなかった。畑にある緑の作物は、すべて水枯れを起こし始めてグッタリしていた。甘藷畑のベニアズマの葉も、水分を欲しがるヨトウ虫の食害に遭って今年は特に悲惨な状況になっていた。
 スミオが麦茶を飲みながらミケの遺品を片づけていると、前の県道からトラックが入ってくるのが見えた。機械屋のトシオだった。荷台には農薬散布用の無人ヘリが積んであった。白地に赤いストライプの流れる全長二・五メートル程の機体だ。
「明日の朝にしようかと思ったんです、風が弱いんでなんとかなると思って、東側の一丁五反のベニアズマでしょ? 」
 トシオはヘリを固定していたゴムバンドのフックを外しながら言った。
「いやー、だってよぉ、あんな連中に使われてたらケツの毛まで抜かれちゃいますよ」
だから共済組合のオペレーターを辞めて、無理して千二百万もする無人ヘリを個人で買い込んで独立したんだとトシオは主張するのだった。トシオは、七月いっぱい全国の田園地帯を飛び廻って、その一ヶ月で年収の半分稼いでいるという話はスミオも聞いていた。それが一段落してから、地地元に帰ってきて、サツマイモや人参、ゴボウなどの畑作地帯、ゴルフ場の松食い虫防除といった、いわゆる内職的な仕事をしていた。コンパネで自作した二メートル程のケースから、ヘリのローターを二枚取り出し、ガンブルーに鈍く輝くボルトでそれを機体に取り付けながらトシオは続けた。
「ちょっと待ってくださいよぉ。スミオさんまでそんな根拠のない話にダマされちゃってもう。だってさあ、車の車検や定期点検が年三回、それもメーカーが機体取りに来て、まだ使える部品も全部交換ですよ。それだけで年間二百五十万はぶっ飛んじゃうもんね。大体そんなに儲かるなら、とっくに他の連中が始めてるでしょうが」
農薬と水を電動スクリューで混合しながら、トシオは日焼けした顔で笑った。タンクを機体にセットすると、もう少しさがって、と手でスミオに合図しながら送信機のスタートレバーをオンにした。
 ゆっくりと回転し始めたローターが最高回転に達した時、二十キロの農薬タンクを積んだ白い怪鳥がトラック上野ヘリポートをゆっくりと離れていった。スミオが後から畑に出て見ると、ヘリは忠実な軍用犬のように地上から五メートルのあたりでホバリングしながら主人の命令を待っていた。スミオが農薬を吸い込みながら一人でやっていたら、熱中症と戦ってフラフラになってやっとまる二日はかかる仕事を、無人ヘリは三十分で終わらせてしまった。
「農薬までこっちが持ってきて、一反三千円ですよ。安いもんでしょう? 農協の薬買ってきて自分で撒いたって,盆過ぎにはまた食われちゃいますって。それにさあ、あんな高い農薬(クスリ)畑中に撒いてたら虫より先にサイフの方が先にやられちゃいますよ、へへ」
料金を受け取り、携帯電話で次の依頼主に連絡を着けながら、トシオは得意げに笑った。

 ミケが死んで二日経っても、野良猫のトラは今まで通り朝方作業場に顔を出して行った。エサは食っていった筈だが、何となく後ろ姿に元気がなかった。トシオのヘリ防除のおかげで、あれだけ動いていたヨトウ虫はすっかり姿を消した。
 今年、スミオはベニアズマの一番蔓(づる)を植えた。盆前に可能な限り出荷しておかないと、九月の肥料、農薬等の資材関連の支払いが苦しくなるので、肥大を促進する効果を狙ってマルチも黒からグリーンに代え、株間(かぶま)も三寸程拡げてみた。堀取機のコンベアーに上がってくるベニアズマは、欲を言えばもう少し色と肉が乗って欲しかった、とスミオは感じた。収穫したサツマイモをトレーラーに載せて家の庭に戻って来た時、軽トラが後ろから付いて来た。JAの帽子をやや斜めに被った小川和夫が運転している。和夫は現在この北山部落の口調を務めていて、神社祭礼の区費集めに来たのだった。通常、一軒あたり三千円が相場であったが、スミオは一万円札を手渡した。
「名簿には三千円で書いて、あとは役員の『砂はたき』に回してや」
「いつも、しません」
受け取った皺だらけの札を黒いセカンドバックに押し込みながら和夫が頭を下げた。
「すまないのはこっちの方だよ。あん時、かっちゃんにはえらい迷惑かけちゃったもんな」
「もう、その事は忘れましょうよ。オレもあの時はスミオさんに失礼なこと言っちゃって。本当はオレが言いたかったこと、スミオさんが代わりに言ってくれたのに。だから、キミ子もオレも、あの夜泣いてスミオさんに礼を言ってたんですよ」
スミオの言う、あの時というのは十年前にやった和夫の小学一年の息子の葬式のことであった。 
作品名:ダイヤモンド 作家名:深井 紫