舞うが如く 第五章 4~6
戦火が会津の国境に迫ってくると、
旧幕府の要人たちが、一斉に若松の城下から姿を消しはじめました。
奥羽越列藩同盟が擁立した輪王寺宮は最も早く、
六月十八日の未明に、米沢を経て白石へと立ち去ります。
これを皮切りに、要人たちの会津脱出が相次ぎました。
旧幕府軍の閣僚 、小笠原長行や板倉勝静、桑名藩主の松平定敬、
長岡藩主・牧野忠訓らもこれと前後して、若松を後にしてしまいます。
さらに大鳥圭介も、旧幕府の精鋭たちと、伝習隊を率いて、
福島へと去ってしまいました。
こうした結果、江戸から逃れてきた旧幕府方の兵力のうち、
若松に残ったのは、伝習隊の一部と水戸藩からの脱走兵、
新選組の生き残りなどの、僅かの兵と
浪士たちのみになってしまいます。
会津は、米沢藩や仙台藩からの援軍と、
江戸を脱走した榎本武揚の旧幕府艦隊の援軍に期待をかけました。
一方の新政府軍も、会津軍の捨て身の守備や東北各地に広がった内乱や
一揆などに手を焼きつつも、近づいてきた東北の冬を前にして、
止戦工作を必死に進めていきます。
そしてその決め手となったのが、米沢藩でした。
官軍の参謀であった板垣退助が、八月二十六日から
米沢藩に書を送り、停戦と帰順のための工作を計り始めます。
米沢藩も二 十八日以降になってから、積極的に
この止戦工作への対応をはじめました。
恭順を決意した米沢藩は、
ついに、会津からの援軍要請を断ります。
若松を去った小笠原長行や、大鳥圭介、竹中丹後らが旧幕兵や
仙台 ・二本松・庄内・棚倉・山形の藩兵たちを集めた混成部隊609人にも
圧力をかけて、ついにはこれを解散させてしまいます。
夏を前にして、
東北をひとつにまとめあげていた奥羽越列藩同盟は、
その内部から、ついに崩壊を始めました。
敗戦による後退と、停戦と恭順で陥落する藩が相次いでしまったのです。
こうして遂に会津藩だけが、最前線に取り残されてしまいました。
作品名:舞うが如く 第五章 4~6 作家名:落合順平