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Twinkle Tremble Tinseltown 4

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 彼の隣に腰掛け、持ち込んだクラッカーを齧る。耳元で響く、プルタブを押しのけたガスの音が心地よい。はっきり言って広げられた記事には飽きるほど目を通していたし、キルケアはそれを種にして会話を広げる気など全くないようだったが、この時間をフロリーはとても大切にしていた。セックスは楽しい。だがこうして何をするでもなく二人でいるときに感じるこそばゆさは、ある意味オーガズムを凌駕していた。自分の身体が彼一人だけのものになったような気がする。


 体格の割にはがっしりとした肩に頭を預けていたら、ふと極端な消毒薬の匂いが鼻腔を擽る。首筋に鼻先を擦り付けると、キルケアは喉を震わせながら彼女の秀でた額を押し退けた。
「くすぐったい」
「何これ」
顔に掛かったブルネットを掻きあげ、フロリーはもう一度深く息を吸いこんだ。
「何か手術でもしたの?」
「別に?」
 もう一度、今度は額を指で弾かれたりしない前にもっと距離を詰め、フロリーの鈍い頭は何とか回転を始めていた。彼が通常の医療行為だけではなく、グレーゾーンすれすれの「善行」に手を出しているのは承前の事実。それらで得られる収入を加えたところで、高い医療費や弁護士の費用を払えるのかはいささか謎だったが。いろいろしてるんじゃない、と曰くありげに睫毛を瞬かせていたクリスタの笑みを思い出す。
「これ」
「手術って言うか、来る前に患部の抜糸をしたくらいだけど」
 諦めたのか好きにさせ、そのまま雑誌に目を落とす。
「仕事は上手く行ったのに、逃げるとき門柱を乗り越えようとして脇腹抉ったんだってさ」
 そのまま彼女が黙り込んでしまったから、これで話は終わったと思ったのだろう。だから遠慮の欠片もなく立てられた歯が、長い首筋に食い込んだとき、予期せぬ痛みに呻いたのだ。喉が震えた拍子に吹き上がったアルコールは、鼻腔にまで迫ったらしかった。
「何なんだよ一体!」
 むせ返る動きに合わせて痙攣する喉仏をくっ付けた頬で感じながら、フロリーは煮えくり返る怒りに身を硬直させていた。
「ひどい」
 アラスカもかくやと言った視線に晒されても、ミルクチョコレートの色をした瞳は一切怯まなかった。
「あいつを診察したんでしょ」
「だから何」
 まだ篭った咳を続けながらも、とりあえず滲んだ目尻を指先で誤魔化す。
「ふざけるのにも程度ってものが」
「その怪我。抜糸って、あいつの脇腹を」
 早口でそれだけ吐き出した唇は、整った前歯に噛み締められて徐々に赤黒く変わる。とりあえず相手から距離をとることに成功したキルケアは、ひそめた眉の下から放つ眼光を少しだけ緩めた。
「ああ」
 軽蔑の温度は変わらないが、紛れ込んだ不純物のお陰で少しだけ切先が鈍る。
その機に乗じて、フロリーはまた声を張り上げた。自分でも、煮えたぎる衝動の原因がさっぱり分からない。論理的思考を放棄した脳の末端で爆ぜた火花が、視神経を伝って眼球全体に広がる。
「仲悪いんでしょ、どうしてそんな」
「だって患者として来たんだ」
見下ろす瞳に膜が張ったのを見た瞬間、キルケアの声へあっという間に諦観が紛れ込んだ。
「頭が空っぽでも」
「大したこと」
 鼻の奥がかっと燃え上がり、ついで湿り気を帯び始める。幸い鼻水が垂れるよりも早く涙が溢れ出し、顔中をとめどなく濡らし始めたが。
「大した事ない怪我なのに! 市民病院へ!」
「患者は患者だよ。それに」
 汗すら引いた缶の底がローテーブルにぶつかる。こん、と硬い音は、二人の間にぶら下がった面会謝絶の看板にぶつかって、膝の上のゴシップから色を奪った。
「金持ってるしね」
 うんざりした口調が火照った耳朶に触れた途端、フロリーの唇は戦慄きを忘れた、
「ばか! このばか、ばか!」
 飛び出す悪態の中で、自らが認識できたのはこれくらいだった。自分でも何を言っているか理解できないでいる。喉声と息遣いと呻きと金切り声と鼻を啜る音がごちゃ混ぜになり、目の前が真っ赤に染まった。霞む視界の中冷静と苛立ちの間でじっと身を潜める横顔だけをしっかり見ようと努力はしてみる。だが眉間に寄った皺以外は、まるで普段と変わらないのだ。それが許せない、どうしても。今まで沸騰しているだけだった激情が吹き零れ、身体の隅々にまで行き渡る。だから固まってしまったかのような指を尻の下に突っ込み、潰れていたクッションを掴んだ瞬間を、彼女ははっきり認識できていない。体重を掛けすぎて硬くなった綿を撫で付けられた髪に叩き付けた瞬間ばかりが、やたらとスロー掛かっていたのだけを覚えている。
「何話したのよ、話した? どうせ」
 一発殴れば後はもう手当たり次第で、無茶苦茶に振り回す腕が風を切り、その間に小さいながらもはっきりと聞こえる舌打ちが挟み込まれる。勿論発信源は彼女ではない。無言で腕を掲げ攻撃をやり過ごしてから、キルケアは深々と息を吐き出した。再び振り上げられたクッションの合間を縫い、黒い目が腕の下から覗く。
「黙れよ」
 喧騒の空白にそう一言放ったきり、再び口を噤む。フロリーは、自らの腕が瞬時に凍り付いてしまったのを感じた。淡々とした口調で容易く身体を縛り付けると、鮫のように感情の見えない瞳は言葉を一飲みにしてしまった。もっと喚けばいい。部屋は沈黙に包まれている。もっと暴れればいい。肉体の動きを阻むものは指一本ない。そう考える思考すら黒い深淵に吸い込まれる。
 キルケアは穏やかに眇めた瞳で彼女を見下ろすと、駄目押しのように口を開いた。
「泣くな。分かったな?」
 それは封印であり、同時に呪縛を説く鍵でもあった。
「分かったわよ分かった!」
固まっていた唇はわなわなと震え、瞼が再び熱を持つ。溢れ出る涙を隠すよう身を投げ出し、フロリーは残っていたクッションに歯を立てた。母親から送ってもらったパッチワークのカバーにじわじわ唾液と唸りが染み入る。後頭部に突き刺さる視線の意味は一体何か。何にせよ辛くて、嫌々をするように顔を伏せたまま、左右に強く振った。


 発作的な啜り泣きが鼓膜の中で跳ね回っていなくとも、隣の肉体が立てる音は何一つ聞こえなかっただろう。余韻も何もなくスプリングが軋み、熱が遠ざかっていくのを剥き出しの太腿で知った。
「そうやって泣けば何か変わると思ってるのか?」
 コンビの固い足音が遠ざかっていく。
「結構だな。そうなるようせいぜい祈ってるよ」
 ドアが静かに閉まっても、フロリーは身を丸めるようにしてクッションを噛み続けていた。悔しい。悲しい。妬ましい。原始的な感情は一度火がつけば燃え上がるのは早いが、消えるのも早い。身を捩った際に、取り残された雑誌が涼しい音を立てて床に落ちる。せめてラックに戻していって欲しかった考えることのみが恨みで、後はもう、燃え尽きるのを待つだけ。涙が止まるのを待つだけ。