杏の樹
僕が小学3年生のころであり、その花からは何の木であるか解らなかった。
父か母に聞けば教えてくれただろうが、訊ねる気も無かった。
薄いピンク色の花は梅の花かと思っていた。
花が終わった頃、洗濯ものに毛虫が付いていて、母が大騒ぎをして、僕に取るように言いつけた。
僕も毛虫は嫌いであったが、母が頼りにしてくれた男であると思い、新聞紙で毛虫を包んだ。
「つぶして殺すのよ」
言われるまま指先に力を入れた。
新聞紙に何かが沁み出た。
「庭で燃やして・・」
僕はマッチで火を点けた。
新聞紙のなかに毛虫がいるのかどうか、火はボーっと明るくなるとすぐに消えた。
「洗濯物全部調べてね」
母は僕にまた言いつけた。
「毛虫なんか怖くないよ」
僕は遊びに行きたくて母にそう言った。
「毛虫に刺されたら痒くて大変なのよ」
僕は仕方なく、洗濯ものをパタパタとはたいてみた。
その夜、父と母が
「あの杏の樹は切れないのかしら」
「大家さんに聞いてみるよ」
と話していたので、あの美味い杏の木かと思った。
杏の木はいつになってもそのまま立っていた。
洗濯物は他の場所に干すことになった。
どうしたことか、杏の実がならないうちに、その家を引っ越すことになった。
僕は気に入っていたのだが、母が言い出したらしい。
学校が転校にならないようにとすぐ近くに引っ越したのだった。
僕はどうしても杏の実を食べてみたかった。
でもその家には知らない人が住んでいた。
木には実が付いていたが取ることはできなかった。
庭の外に落ちていた黄色と赤色の混ざった実を拾い、手で汚れを落として、
かじってみたが美味くはなかった。
大人になってもその頃の夢を見る。
夢のなかの杏は甘くて美味いのだ。