充溢 第一部 第十九話
第19話・2/3
それは論文をプリージに提出しに行った時の話だ。
あの小男が、自分の研究が台無しに……意図に反して指示通りのものを作ったお陰で、台無しになった代償を求めてきたらしい。本人は姿を見せずに、教授に仕事を頼むとは……"裾に隠れる"と安心できる程の小ささなのだろう。
プリージは顰めっ面で、非はお前にあるのだと言う顔をしている。
責任を取って貰う――責任とは相手が勝手に鋳造した、"巣"だらけの鐘ではないのか。
「仰っている意味が分かりませんが……まさか、あんな支離滅裂な意見を信じているなんて事はないでしょうね?」
あそこまで言うのだから、まともなことを言っても無駄だと分かっていた。案の定プリージは、問題が拗れたことがお前の責任だと言って引かない。それは他のメンバーの総意だと言う。立派な陪審員なこと。
最後に、落としどころを差し出すように、『私がどう考えるかではなく、そう言うものだと思ってくれ』と無茶なことを言い出す始末。
押してもダメなら……と言う事だろうか? しかし、これとて高圧的な要請だ。その上、自分の責任でないような言い方をしている。なんて人だろう。
自分の中で"このまま進んでは駄目だと言う警鐘"と、"妥協しては駄目だと言うラッパ"が同時に鳴り響く。
「考えもしないで思った事で話がまとまるなんて、よっぽど優秀なんですね。見直しましたわ。
結構ですよ。私の論文が欲しければ、好きなように使えばよいではないですか。
わざわざ断りを入れる必要がありますか?
農奴の収穫は領主の収穫であるのと同じですよ。臆することなく奪っていけばよいではないですか」
「口の聞き方に気をつけろ」
何に怒っているかは分かる。正しくは、怒らなければならないのだ。言いがかりを目的とする奴が、気弱に構える筈がない。怒りは、自分の精神にヴェールを掛ける鎮痛剤のようなものだ。怒っている間は、良心の痛みを忘れることが出来るからだ。
こんな小娘に何を怯えているのだろうか。相手を試してみると、突然母のことを引き合いに出された。
親子して、性格が曲がっているのだという。誰にも好かれず、何処までも孤独だと言われた。
見損なった。自分の事が攻めきれないとなると、母親を責めるとは、男の吐くべき台詞じゃない。
更に試そうと、具体的にどうすれば気に入るのかと訊ねる。予想通り、『自分で考えることだ』と言う――それが出来ないのは、それを考えないからとまで。
自分の望む答えを出さない人間は、全て考えていないと言う扱いである。人に成果を求める人間が、自分の思ったとおりにならない事に、"やる気"だとか"努力"だとかが足りないと言うアレと同じである。問いと答えが循環している――自己中心的な問答だ。
しかし、彼はそれが何であるか口にしまい。その答えは、己の勝手都合だからだ。だから、私は敢えて問う。問い詰める。
男は押し黙る。
分かっていたことだ。答えなんてないんだ。誰一人、正しい関係なんて知りやしないんだ。
男には、冷静な教師であろうと、なるべく調子を抑えて話そうとする努力が伺える。しかし、どうして、声は震えている――声を低くして答える。考えても無駄なら、考えるなと。
生きることは考えることだ。どのようにして、ない事にしてしまえるのだろう。
大人の言う事は皆同じだ。言いくるめられると、考えろと言い、それが反駁されれば考えるなと言う。そうした言葉に何の思慮もない。条件反射で言葉を選んでいるだけだ。そうか、考えないと言う事は、こう言う事なのかも知れない。
そこまで追求すると、彼は正面から突破するしかなくなる。余裕を見せようという努力をかなぐり捨て、怒りを露わにした。青筋を立てて怒鳴りつける。
「話をしても無駄なら出て行くがいい」
「ええ、出て行きますとも。
誰だって同じです。自分の経験もない事で人が苦しんでいるのを見ると、それを自分は克服したのだと考える。全てのことが嘘ですよ」
席を立つ背中に、後れて彼が畳みかける。
「さあ、出て行け!」
作品名:充溢 第一部 第十九話 作家名: