銀の糸
型紙の依頼
5階建ての市営住宅を右に曲がったところに、赤い郵便ポストが見えた。
いまは郵便局では使ってないが、円筒型の懐かしいものだった。
五月女玲子は額の汗を拭いた。自転車を降りて、ポストのところまで歩こうと思った。
少しは呼吸が整うだろうと思った。
電話で場所を聴いてはいたが、五月女の家からは3キロくらいの距離であった。
めったに自転車でこれほどの距離を走った事は無かった。
7月の暑い盛りであり、車代を節約した事が悔やまれた。
初対面の家に訪問するのである。
手鏡で顔を見て、髪を整えた。依頼を断られたらとの思いもあった。
玄関のチャイムを押した。
待っていてくれたのだろうか、直ぐにドアが開いた。
「五月女です。はじめまして」
「お待ちしていました。どうぞ」
八畳の間に通された。座卓の前後に座布団が敷いてあった。
「こちらにどうぞ」
「突然のお願いですみません」
「もう20年も彫って無いですからね。下書きを見せてくれますか」
五月女は自分で描いた新聞紙半分くらいの紙を見せた。
「虎と鷹ですか」
「はい」
「珍しい、今では時代遅れの図案でしょう」
「多分暴走族なんです」
「そうか」
「彫って頂けますか」
原口保は考えていた。親戚の子供が6歳の時に交通事故で亡くなっていたのだ。
もう30年も前の事であったが、思いだしていた。
「お宅様はおいくつですか。突然ですみません」
「38歳になります」
素直に年を言ってくれたことに、原口は好感を持った。
「実は姪が交通事故で亡くなっていたんですよ。だからこの仕事はお断りしようと思ったのですが、あなたも生活があるでしょうからね、何とか彫ってみましょう」
「無理言ってすみません。ありがとうございます。彫り賃は日数分お支払いします」
「いや相場でいいですよ。腕が鈍ってますから、いく日かかるか解りませんよ」
「お仕事は休まないで下さい。休みの日でいいのですから」
「お盆休みが5日ありますから何とかなるでしょう」