充溢 第一部 第十六話
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今まで黙って……不満そうな顔をして待っていた男、シザーリオが、今になって立ち上がり叫ぶ。
「公爵様。僭越ながら、ご意見を申し上げて宜しいでしょうか?」
公爵はイアーゴーに向けた高慢さそのままに応答した。
「被告の命も救われたのですから、ここはしっかりと先の件、審議して頂きたいと存じます」
公爵相手に物怖じしないのは、こちらの弁護士も同じか。傍聴席は息をのむ。
ここで公爵は、少し意地悪をした。今日すぐにでもやらなければならない事なのかと。
片眉を上げて、壇上よりシザーリオを見下ろす。
対して、弁護士は、毅然とも余裕とも取れる態度で返す。
「なりません。今、ここで白日の下に晒さねば、なりません。
密輸だの盗賊だの散々な言われ方されましたが、どれもこれも事実無根。
罪人でもない人間なら、それを長きに渡り拘束し続けるのは、とても正義に適っておりません」
「どいつもこいつも正義好きだな」
ポーシャは馬鹿にするように吐き出す。
「泥棒にとっての悪は、それを捕まえる者ですもの」
「思い込みが強いヤツの勝ちだよ。ここいらで野次を飛ばしている連中だって、街中でツバ吐きながら歩いている連中だって、自分が人並み以上だと信じ込める何かがあれば、みんな一角の人間だと思っていられるさ。
ナルシシズムは、それ自体に限って善だよ」
ポーシャには生意気に聞こえたのだろうか、説教を戴いたので、こちらかも反撃してみる。
「ポーシャのように許される高慢もありますし」
「何だよソレ」
ポーシャの笑顔が引きつっている。
公爵はまたしても格好をつけてシザーリオに問う。
「ならば、そなたにも問おう。お前にとっての正義とは何だ」
「真実です」
この一言の為にここに存在しているのだ、という顔で返すシザーリオの顔が格好いい。女でなければ……心底残念だ。
「真実とは、如何にも都合が良いな。
イアーゴーの言う真実も真実であるぞ」
公爵も真実や正義の馬鹿馬鹿しさを笑う。
「現実に起こった事が真実でありましょう。なるべく多くの人に適用され、後に於いてもそうであると認識される事が真実と言えます」
「ならば、彼の言葉もお前の言葉も、等価と言えるな。説得できた量が違うというだけで」
更にシザーリオを試していく公爵もなかなかの良い表情だ。
「それでも結構ですとも。真実は星の数ほどあります。
好きなように取捨選択されるでしょう。好きなように」
シザーリオは、それをあっさりと投げ捨ててしまう。受けて立とうとしない。
「我と、この傍聴席の諸君が好むような言葉を持ってきたと言うのだな」
「勿論、ご用意致しましたとも」
勝ち誇ったように胸を張る。
シザーリオは別の船積書類を提出した。こちらもアントーニオの書類だ。
「先のものと比べてご覧になって下さい。細かなところで書式が違うことを確認できるでしょう」
通関事務所の職員を証人に立て、書類の説明をさせた。
イアーゴーの提出した書類は書式が古く、そのままでは陸揚げどころか船積みも出来ないと証言した。
アントーニオが彼に渡したのは、以前彼が作り間違えた書類で、本物はポーシャの手元にあった。どうせ、彼女がすり替えたのだろう。
何故、受理されるはずもない古い書式の船積書類に、通し番号が付されているのか?
証人に尋ねると、何らかの工作があったと考えられると陳述した。
通関事務所側の目録に記載されていると言う事は、きっと、別の書類があるに違いない。何者かが薬の密輸を行い、その時の通し番号を書き写したのだ。
証人との問答は、十分に準備されたものだった。イアーゴーはいくつか食い付き、職員が面食らった場面もあったが、裁判は順調に進んだ。
「問題は、どのように偽造されたかと言うことですが……通関事務所で使われるインクは特殊なものなんですよね?」
長く潮風に曝され、水に濡らされる危険のある書類である。学園で開発された特別製を使っているのだ。
「では、実際に水にでもつけてみましょうか」
シザーリオからは、自信がにじみ出ていた。
傍聴席で一人、心配になった。
彼がインクまで気にしていたらどうだろうか? 博打のようなものじゃないか。
「そんなハッタリ大丈夫ですかね?」
「見ていろよ」
不安な声は、不満な表情でかき消された。
「それには及ばんよ」
イアーゴーが歯噛みしている姿を見て、公爵は哀れみの表情を浮かべ問う。
「イアーゴー、どうかね? ここらで引き下がってもよいではないか」
しかし、彼の闘争心はちっとも萎えていなかった。
「マクシミリアンを……彼が真実を知っている筈」
必死の言葉に、公爵は用意していた笑いを、ここで一気に解放した。
「そうか、あの男か。確かに、今、牢屋に入っている――一昨日、ケチな喧嘩をした挙句、往来の真ん中で眠っていたからな」
原告は、事の状況を理解出来ない様子で、憮然として立っていた。
「先に密告があってね。我々は倉庫からそれを抑えたのだよ。麦角の事を」
勝利は既に頭上に輝いていた。公爵は、決まった勝負をさっさと終わらせようとする。
「いいかね、勝負は最初からついていたのだよ」
顔は一回り大きくなるほどに赤変していた――血が沸騰しているのだ。頭髪は逆立ち、顔面の血管は拡張されて浮き彫りになる。滲んでいた汗はすぐさま大粒の滴となった。
目に明かりはなく、全身が打ち震えている。
「イアーゴー、沙汰は追って申し渡す。
身の回りの世話もあるだろう。一晩時間をくれてやる――明日、出頭しないと馬鹿を見るぞ」
金貸しを指さし、その身の奥深くに念を押し込む。
公爵はじっくりと顔を上げる。晴れがましい表情を満場に向けて、権威を轟かす。
「以上、閉廷だ」
被告人の縄は直ちに解かれたが、精神の呪縛はなかなか外れず、兵士に場外へ連れ出された。弁護士はウィンクしてみたが、気付かれなかったようだ。疲労困憊の体で、手を上げるのがせいぜいだったからだ。シザーリオは傍聴席に目配せをして後を追った。
原告は誰も手出しが出来そうになかった。弁護士役の男は仕事が終わったとばかりに、傍聴席のざわめきに紛れていつの間にか消えていた。
公爵は、何か言いたげにタイミングを図っていたが、遂にその時が訪れる事はなく、公判の時以上の静寂に包み込まれると、逃げるように、但し、惜しみありげに、奥の扉へ隠れた。
スィーナーとポーシャは、公爵が立ち去る頃合いを見て、傍聴席を離れた。
作品名:充溢 第一部 第十六話 作家名: