充溢 第一部 第十六話
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公爵が現れた。場内は直ちにその声を潜め、彼が席につくと、図書館のように音を消した。
今のスィーナーにとっては、遠い存在だ。にもかかわらず、公爵だってただの人だ。それは彼自身も知っている。他の多くも知らないはずはない。社会性という"お決まり"の中で演じられているだけだ。
今、眼の前で続く事務的な、儀礼的なやりとりも、皆の改まった態度も、自らが選択した以上に、それ以外の選択を許さない"決まり"の中で生きているだけに過ぎない――その"お決まり"こそが卑近な世界そのものなのだけれど。
原告のイアーゴーが得々と語り始めた。
「隠れてこんな事をやっているとはね……
貴方のところの用心棒であるマクシミリアンと言う男が、狂いの薬を運んでいるところを捕まえられたとか。
貴方も、とんだ与太者だ――色々と調べさせてもらいましたよ。
いやはや、全く恐れ入りました――私は彼のやり方に未来を感じていましてね。それもとんだ徒花。いやいや、それとも麦角ですか……」
この国の錬金術が、麦角から人間の精神を崩壊させる薬を作り出す事を発見したのは、今の公爵が総督になった頃だ。
瞬く間に蔓延するのを見るや、これは人類によからぬ影響を与えると公爵は判断し、麦角に関わるあらゆる活動を禁止した。
学園の研究者達や、それを売り捌く商人からの反発もあった。他の未知の効用が見つかるかもしれないのだから、研究分野ぐらいは残すべきではないか――と言う意見は尤もであったが、裏口を作るのを嫌ったのだ。公爵が最高潮に人気のあった時期だ、今ならもっと緩い規制で妥協しなければならなかっただろう。
法令の制定に彼を駆り立てた、真の動機を知るものは少ない――エリザベッタの召使が、良かれと思って彼女にこの薬を薦めた事が、彼女の精神崩壊の一端にあったからだ。
イアーゴーが証拠を提出した。
船荷証券に始まる各種の書類、現地の売人の覚え書き、通関事務所のリスト――それぞれの内容がリンクし合い、密輸品と旅したような気になるほど、密輸ルートは透明に整列していた。
彼は、如何にして自分をこの隘路に誘い込んだかを説明し始めた。アントーニオは彼に、証拠の品である船積書類を預ける事によって、いざと言う時、疑いを自分に向けさせようとしたのだと主張した。
口八丁手八丁でそそのかし、自分から借金を重ね、ある時は女をはべらすために使ったのだと熱弁を振るう。
あちこちの店でツケにした品目の幾つかを上げ――そこにはスィーナーに向けたものも入っていた――どれほど金銭感覚が荒いのか、人間関係にだらしないのかを解説した。
「本当に二、三日で集めたと言うなら、なかなか優秀な人間だな」
ポーシャが笑う。
この言葉のために、彼はずっと前から骨を折り、また並々ならぬ練習をしたのだろう。台本なんて持ち込めないからだ。
原告が喋り終わると、公爵が語り出す。
「イアーゴー、お前の望むものは何だ?」
神妙な顔つきだ。こうやって時々威厳を見せては、臣民にそれを心に根付かせるのだろう。
「正義が余すところなく達成される事で御座います。
その為なら、貸し付けたお金などいりません。むしろ、不正義そのものが負債と言えましょう」
手を広げ、高らかに宣言するイアーゴー。良い心がけだと、公爵は大きく頷く。そうしてから、じっくりと男を見てやり、父性的な声で問いかける。
「その持ち前の正義心から、この罪人に慈悲を掛けてやるという事はできないかね?」
しかし、イアーゴーはこれを撥ね付けた。
「慈悲と無秩序を同じにしてはならないと考えております。
正義とは秩序を守る心に他なりません。この国は、その秩序が守られているからこそ、今の発展があったのではないですか?」
腰を引き、公爵を見上げる。聖者に問いかける教徒のような顔をする。
「罪人をいちいち殺していては、みんな逃げ出しやしないかね。
私の考える秩序は、安心して商売の出来る事だと考えるがな」
すげない答えに、金貸しはすぐさま反抗した。
「犯罪者の蛮行に怯え、声の大きな人間の不公平に耐える事が秩序でありましょうか」
公爵と傍聴者を前に、大きな手振りで訴える。
そのパフォーマンスは、公爵には不興だった、『極端に考えてはいかん』と更に突き放した。
「では、具体的に何が、許される者と許されざる者とを分かつのでしょう。
仮に私と彼の座る席が逆の場合、貴方方は、同じような基準でそれを推し量れるのでしょうか」
確かに、彼のような金貸しは判官贔屓の対象にはならないだろう。男は悔しそうな顔を見せていた。
「なかなか言い難いことを言える男だな。
確かに、我々はそれを常に念頭に置いて裁かなければならないな」
公爵は、姿勢を正し、更に難しい顔をする。真摯に取り組む態度を外す訳には行かない。
それを意識できる人はどれほどいるだろうか? 権力に溺れた者や教養俗物は、自らの基準を絶対と信じる傾向にあるし、教養を持たぬものは、そもそもそれが意識に及ぶ事かどうか。
人を裁くとは、言葉を費やして主観に説明を付けることだ。
「なかなか正しい事を言いますね」
傍聴席でポーシャに囁く。周囲の人間は、あれだけの野次を吐いていたのが嘘のように静まっている。
「惜しい男だ。正義さえ語らなければ……」
正義で動く人間は恐ろしい。合理的な落とし所を得ることが出来ないからだ。
「何も私は、お前の"負債"をそのまま引き受けろと言うわけではないぞ。
この男の罪が証明されれば、それ相当の罪を償わせるのは至極当然の事だし、お前の損失はこの男の財産や、今後の収入から返済させる。
酔狂にも四倍も六倍もの金で、この男の身柄を買いたいという者もおるしな」
公爵がこちらをちらりと見る。その動きに自然さを与える為、目の高さをそのままに、どうだと言わんばかりの顔で、傍聴席を見渡す。
「公爵様、お言葉ですが、それはお断りします」
「ここまで言っても駄目か?」
試すような表情。これが最後だぞと言っている。
「まっぴら御免です。
勇猛果敢な総司令様が、今更流血を厭うとは如何なる事でしょう? 流血を厭う者は、これを厭わぬ者によって必ず征服されると言うではないですか?
ここに不正義があり、正義のための流血を厭えば、必ずしや不正義が正義を駆逐しますぞ」
しつこく妥協を願う公爵に対し、そろそろ男の態度が露骨になってきた。
群衆から見れば、この怒りは当然に思えた。否、そのように言い争いをする姿こそ見たかったのだ。
男はその期待に応えている。語気は鋭く、断固としていた。
「そこまで言うのならば結構。借用書のそれを履行すれば良い」
公爵は諦めの表情を見せ、手を振って合図をした。
原告の弁護士と見られた男は、木箱から大きな刃物を取り出す。湾曲した身を持つ一メートル半を超える大きさの剣――恐らく東洋から仕入れただろう逸品だ。棟には蠍の彫金が施されている。
あまりの大きさに、遠く離れた傍聴席でもおののきの声が上がり、周囲の兵士も斜に構えた。
「おいおい、1ポンド切り取るにしては大袈裟だな――1ポンド以上切り取ってはならぬぞ」
作品名:充溢 第一部 第十六話 作家名: