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舞うが如く 第三章 13~15

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 壬生の屯所から祇園会所までは、
四条通りを真直ぐ東へすすむ、一里足らずの道でした。
半刻(約一時間)もあれば到着をします。
ここで身支度を整え、捜索と捕縛についての打合せを行い
会津藩と合同して出動する予定でした。
しかし、午後の8時を過ぎても会津藩は現れません。


 このままでは時機を逸すると判断した近藤が、
隊を2隊に別けました。

 一隊は近藤が率いる10人、
沖田・藤堂・永倉・原田・養子周平・谷万太郎たち。
もう一隊の25名を、副長の土方が率いて探索行動を開始しました。
近藤隊は鴨川の西側を、土方隊は鴨川の東側を重点に、
宿改めを実施しながら、浪士たちの行方を探します。


この当時、京の治安を守るために、
各町内の入口には、木戸やくぐり戸が設けられていました。
午後10時を過ぎると、木戸やくぐり戸が閉じられ
何人の出入りも禁止されていました。


 しかし、通行人の多い三条や四条、松原、五条橋通、
建仁寺町通(大和・縄手)、河原町通りなどの大通りについては、
木戸は閉じられていません。
また、旅籠についても一泊以上は宿泊させない規則となっており、
連泊の場合にはその理由を調べたり、不審者であれば届け出が必要で、
犯罪者などの逮捕の義務も負わされていたのです。


木屋町筋には、四条通から北に各藩邸が建ち並び、
その他にも様々な商いの店が軒を連ね、
商人・旅客・船頭等を相手にした料亭や旅館、
貸席などがその通りを埋め尽くしました。


 特に木屋町通東側の先斗町筋を四条通から北へ向かうと、
川魚料理屋が軒を連ねていて、天保の頃には
5軒の有名な生州料理店がありました。



 あわせて幕末の安政6年頃からは、
二条新地から、遊女屋が出店してくるなどして、
京都を代表する大繁盛の街並みになりました。
 こうしたことから、各藩の志士達が密会の場所や隠れ家として
利用するのに、たいへんい好都合な街でもありました。
一軒ずつ家捜しするとなると大変な作業になりますが、
あらかじめ目星をつけた何軒かを中心に、
ひとつづつ、近藤隊が捜索をして歩きました。




■町会所とは、

 京都の町々に設けられた寄り合いの施設です。
戦国時代に始まったもので、毎月家持ちの町人たちが寄り合い、
京都所司代から出された法令や町式目(町内で取り決めた規則)を読みあって伝達し、
町内の問題を話し合い、さらに饗宴をもって親睦をはかる場所でもありました。

その際、各自が膳を持ち寄ったのでこれを町汁ともいいました。
現在でも町会所は京都の鉾町に多数残っています。
会所には他所者・博突・遊女・家来衆の宿泊を禁止しました。
そして町で雇った町用人に管理させましたが、会所守が髪結を業としたものが多かったことから、
階下が髪結床、階上が会所としていたところが多かったようです。

 祇園会所は花街を取り仕切る祇園執行所の跡に設けられ、
会所の跡に明治2年に弥栄尋常小学校が設置され、現在の弥栄中学校となりました。
新撰組が集合した祇園会所は、この辺りにあったと想像されますが、
現在では、その存在を示す史跡は何も残っていません。