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充溢 第一部 第十二話

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第12話・1/7


 フラスコ内で加熱した溶媒が、冷却管で凝集され茶葉の上に落ちる。各種成分を溶かし込んではフラスコに流れ込む。茶葉に滴下されるのは常に蒸留された溶媒なので、濃厚な溶液が得られる。
 後は、分液漏斗で分離してやれば良いのだ。
 こんな方法になったのは、水で煮出すよりも収率を上げる方法を模索していたからだ。探索する成分は、次第に微量なものへと移っていく。実験する毎に大量の葉を摘んでくるのが大変なのだ。
 ただ、溶媒の違いは、抽出平衡や溶媒和、そして溶媒との反応も考慮しなければならない。その違いを見極めつつ、慎重にデータを比較する。

 不思議なものだ。体重が百キログラムもあるような人間にでも、一回に投与される薬の有効成分は、耳かき一杯分にすらならない。身体を維持するために必要とする食糧に比べると、なんたる量だろう――致命的な影響さえ与えるというのに。
 文献でニコヨンと言う物質を引くと、面白い記述を見つけられる。

"この化合物の臭いは知られていない。嗅いだ者は全員死んでいるからである"

 毒物の恐ろしさ以上に、数少ない分子が環境に希釈されても、漏れなく有効に働く事に驚かされる。


 この生活を見かねて、アントーニオは言う。
「嬢ちゃんぐらいの年頃だったら、もっとやるべき事があるんじゃないのか?
 もっと恋をしろよ。俺みたいな男が言うのも変だが、顔もスタイルもいいんだし、恋人を作ろうと思えば、いくらでも出来るだろ。
 遊ぶぐらいの感覚でいいんだぜ。嫌いになればすぐに捨てればいいし、付き合った男全てに、何か特別になれってもんじゃないんだから……
 そうやってフラスコ振っているのが楽しいなら、それでもいいが、無理にでも何かしないと将来後悔するぞ」
「済みません――これ分液漏斗です」
「そうじゃないだろ」
 水滴型のガラス器を握り振り始める。初めは温度が上がるので、少し振っては、コックを開けて、また少し振る。右手の掌で入れ口の栓を抑え、左手の人差し指と中指でコックの根元を挟み、包み込むようにコックを握る。

 アントーニオの言わんとするところは分かる。しかし、後悔の対象になる時期はとうに過ぎている。むしろ、今が後悔の時期だ。子供の頃、子供らしい遊び方をしてこなかった人間が、年頃の遊びや大人の遊びを知ることはないのだ。"自分のやっている事は楽しいことだ"と、自分に言い聞かせる虚しさを知ってしまうと、自分を騙しきる事が出来ない。
 第一、そんな女と付き合いたい男なんている筈がないし、長くは続くまい。そして、そうなった時に間違いなく悔しい思いに身をやつすのだ。恋焦がれる自分を想像できない反面、裏切りの怒りが胸を焼く気持ちは何度でも経験している。

「私、錬金術ぐらいしかやれる事ないし」
 分液漏斗を振り続ける。ガス抜きがいらなくなって、リズミカルに振っていく。
「決め付けるなよ」
 決め付けとは何の事を指すのか分からない。決め付けという言葉すら決め付けではないのか?
「でも、恋愛事も、サクセスストーリーも、それがお話として成立するのは、それが特別だからでしょ? 私は、私の中の特別を見つけるだけで精一杯ですもの」
 男はあきれ顔に嘆息し、なお食い下がる。
「食えん娘だ。
 その錬金術とて、カーチャンがいるからだろ? じゃぁ、そのカーチャンは何処から錬金術を学んだ? その親は?」
「私は、貴方や母ほど優秀じゃないから、自分でそれを見つけ出す事は出来ません。
 それに、母が私に錬金術を残してくれた事は、とても幸せなことですもの」
 穏やかな回答に、言葉を急いていた自分が恥ずかしくなったのか、頭を掻きながら男は笑った。
「そういう事を言われると困るなぁ」
 手を止めて、男を見て、微笑を溢しながら男を翻弄する。
「貴方も、少しは困ったほうがいいですよ」
「困るのは、困るなぁ」
 アントーニオが狭い工房内を歩き回っていた。
 こちらは、手が動いているから、どんな事にも平気な顔をしていられる。

「そうそう、母がこんな事を言っていました。分液漏斗は、愛情を込めて振らなくちゃいけないんですって」
「料理かよ」
 足を止めて男が反応する。
「レシピって言葉も錬金術の用語ですよ」
「そうじゃなくて……愛と恋とでは違うんだがなぁ」
 『さぁ』と言う顔を見せつけつつ、漏斗を漏斗架に置く。油と水のつぶつぶが弾けて、各々の領分に飲み込まれる。
 分離した界面が鏡になっている。それを見て微笑む姿を見て、アントーニオは敗北感を得たのか、肩を落としていた。

 漏斗の足をビーカーに沿わせるように置く。投入口の栓をずらし空気穴を通す――コックを開いて水相を流去しする。
 手際の良さに感心する男。固唾を飲んでいたが、溶液を移した瓶に栓をしたところで切り出す。
「さぁ、一段落ついたし、少し散歩にでも出るか?」
 色男が俄に勢いづく。
「無理です。まだ他にも残ってます」
 にべもない返事にも、男は怯まない。
「休憩も大切だぜ」
「見飽きたなら……」
 言いかけたが、先は飲み込んだ。プリージの言葉を思い出した。少しは愛想に気を使わなくちゃいけないな、と。
「いいでしょう。少しですよ」
「おお、そうか、じゃぁ行こう!」
 男のはしゃぎっぷりが可愛い。だから男は。
「犬じゃあるまいし、散歩ぐらいではしゃがないでくださいよ」
「いやいや、人間だからこそもっと楽しまないと。
 角のカフェのオーナーが替わったって知ってるか?」
 少しにするつもりなんて微塵もない事にため息を付きつつ、身支度のために奥に引っ込んだ。


※フラスコ内で加熱した溶媒が、冷却管で凝集され茶葉の上に落ち~
 ソックスレー抽出器を参照。

※この化合物の臭いは知られていない。嗅いだ者は全員死んでいるからである
 ニッケルテトラカルボニルNi(CO)4、通称ニコヨンの事。
 「有機化学美術館」より
作品名:充溢 第一部 第十二話 作家名: