充溢 第一部 第十一話
第11話・1/2
学生街を歩いている。納品の道だ。何度歩いても、気持ちのいい道ではない――個人的には、港の倉庫街や歓楽街ぐらいに治安の悪い場所なのだ。
そして、その日は朝から嫌な予感がしている。
往路、一人の神父と目が合った。異常なほど身奇麗で、潔癖の感が香水の匂いと共に放たれていた。
香水は、常に自らの鼻を刺激するため、確実にその神経を鈍感にさせる。それ故、一層、多く求めるようになるのだ。
香りは同心円状に支配権を確保していた。
この男のことを気にしていれば、違う道も選べたというのに、復路もうっかり同じ道を歩んでしまった。
「君は、たった一人の実の父親を遠ざけたようだね?
そんな事が許されるとでも思っているのかね?」
急ぎ足を塞ぐ男が現れた。
「何を不躾に? 最近の神父様は、懺悔室に閑古鳥が鳴くと、人に懺悔を強要でもするのですか?」
この言葉は、半ば用意していた。一段と強くなった予感の為に覚悟していたからだ。
「質問に答え給え」
神父は冷静を演じる。
「私と私の母を避け続けた男が、勝手な都合で近づくことが許されるとでも?」
「君は、父のものではないと言い切れるかね」
「捨てられた空瓶に母が素敵なものを詰めたのを見て、惜しくなっただけではないですか?
打ち棄てられた土地を開墾した途端、盗賊騎士に首をはねられるのが、それほど天国への道に近いものでしょうか?
私は今や誰のものでもありません」
騙されてなるものか。彼のルールに引き込まれるものか。彼の言葉は何に偽装しようとも、最後はお金の話だ。悪魔でも聖書を引用できる、身勝手な目的に――なるほど、彼は神を試そうとしているのだ。
「仮にその盗賊が地獄に堕ちるにしても、その生命を蔑ろにする人間は、共に地獄に堕ちやしないだろうか? 彼が彼の勝手で君を縛るとしても、それを君の勝手で絶ち切るのは、結局、同じ事をやっているのではないのか?」
「いいえ、盗賊が自滅するのを待つのと、盗賊を殺すのは別でしょ? 餓えた盗賊に殺されるのを拒むのが地獄への道ならば、餓えた国民をそのままにする国の人達も、当然地獄行きですよね? そして、そんな世界を救えない教会も。
一つ拡大解釈を始めると、際限がありませんよ。貴方の想定する責任の範囲は、自然がそのように決めたのではなくて、貴方自身を中心に置いて決めたに過ぎません。
貴方は私を我侭な人間としたいのでしょうけど、本当に我侭な人間というのは、自分の我侭を通さない人を我侭と決め付けるものですよ。貴方が、彼に何を頼まれたのか知りませんが、神父様が語るほど神聖な話では御座いませんわ」
これほどまで言える自分に驚いていた。
「惨めな人間は、どこまでも惨めですな」
「いいえ、神父様。貴方は、貴方が惨めと決めつけた人間が、惨めったらしい格好をしていない事に気が食わないだけですよ。
貴方は貴方の決めた秩序の中で、貴方の立処を確保したいだけなんです。世界も神も人間の都合に合わせて、人間化するのはいかがでしょうか?」
彼は自分の力を自分自身に対して見せつけたいのだ。小娘の上に君臨する自らの力を誇示する自身の姿を。
「貴方のような人間が、神を語る資格があるというのですか?」
ほら来た。所詮、自分の為の神なのだ。
「神は貴方のものではありません。資格というものが必要という事自体、神を人間の如き地上の者に貶める行為では御座いませんか?
神が人間の如き存在に対して、阿るだろうか? と、私は申し上げているのですよ。
言いたいことがあれば、直接語りかけることも出来るでしょう。何故、神はそうなさらないのですか?」
神がいて、それが仮に全能ならば、人間は如何にも惨めな存在だろう。人に踏みつけられる小さく大勢の蟻と同じなのだから。
「神のふりをして語り掛ける悪魔がいるからではないか」
「それはどういう時に、神の言葉を排除して、悪魔が語りかけるのでしょうか? また、その区別は何故つかないのでしょうか? 全知全能であるはずなのに」
そして彼の持つ聖書さえ、悪魔がこっそりそれをすり替えていたとすればどうなる?
「常に正しくある人は、その声が聞こえるのだ」
「その正しさというものを神が語りかけるのではないのですか? それとも、神に語りかけられる資格は、人間が人間の都合に合わせて自由に作り変えられるとでも言うのですか? まず、その正しさは何処から来るのですか?」
誰しも自分が一番正しいと思うし、間違った人間ほど、それを疑わない。
「人間の心に常に宿っているのだ」
「ならば、私や異教徒の中には、また、太古の人々にはそれが備わっていないということですね?
つまり、産まれた場所や、時代が違うというだけで、語り掛けるられないと言うのはどういうことでしょう?
もし、貴方が偶然にも未開の地で産まれたとしたら、それだけで貴方は、地獄に堕ちる運命を背負うことになるのでしょうか? それとも、かのような土地の人間は、貴方達と違って人間ではないと申しますか? そして、それこそが天国への道なのでしょうか?」
「悪魔の子めが!」
遂に言い訳が思いつかなくなったか。追い詰められた人間は何を言い出すか知れたモノではない。何をしでかすかも……
「神の国は貴方がたの中にある!」
うっかりとこの言葉を引いてしまった。なるほど、魔女にだってそれを自由に引ける訳だ。
「汚らわしい!」
男は激しく吐き捨て去って行った。
幸い、この国は無神論と言う疑いだけでは投獄されない事にはなっている。
公爵が、人形部屋の中で、神と対話するとは考え難い――あるとしても、公爵自身の神であろう。
神父に毅然とした態度が取れたのは、彼が自分の都合を神や道徳や常識というものへ転嫁して、その内容に触れないという立場がはっきりしていたからである。
彼に感謝しなければならない、これらの言葉は、ポーシャの言葉を補強し、その道へ見事に導いたからだ。乗り越えるべき壁が自ら訪れてくれたのだ。
※悪魔でも聖書を引用できる、身勝手な目的に
「ヴェニスの商人」第一幕 第三場
※彼は神を試そうとしているのだ
主なるあなたの神を試みてはならない
マタイによる福音書4章
※神の国は貴方がたの中にある!
ルカによる福音書17章
作品名:充溢 第一部 第十一話 作家名: