充溢 第一部 第十話
第10話・3/3
スィーナーの心は晴れていた。論文の為に対人関係で苦労するのは真っ平御免だったからだ。プリージの後ろ盾があるなら、自分は必要な書類を作りこめばよいだけだ。この研究の為の予算申請なんて面倒なこともいらない。成果を急ぐ必要もない。考えると、自分の立場が心底愉快なものになった。
プリージの口にした、『上手くやれないだろうか?』との言葉は、心にぐさりと来たが、かと言って、何をどうすれば良いのか、口にもされないで、上手くと言われても困るのだ。
方法も示さずに、つまり、方法も考えずにその解決だけを求める事を"指導"とは呼べない。
何故、その指導をここでしない? 人間が相手の場合、自分以外の心がどう動くかなど、自分には到底コントロール出来る事ではないのだからだ。対して、実験は素直だ。
学園は気が重たくなるが、それだけで格別支障もない。わざわざ波風立てるような事をしなければ、それでいいのではないか? 科学は世界を改善するが、人間そのものは人間の手によって改善されるかと言えば、とても信じられない。
帰り道、それは何処までも明日に輝いていた。
ポーシャに声を掛けられ振り返る。
「その顔を見ると、何か得るものがあったのかね」
この気持ちを察してくれた事がなお嬉しかった。でも、表情を読んだなら、明るい顔をしてくれればいいのに――ポーシャは落ち着いた態度を崩さない。
「ええ、先生が応援してくれるって。急ぐ必要はないって仰ってたし」
そうか、そうかと、ポーシャは喜びの声を漏らしたが、表情を変えずに続ける。
「制限がないからと言って、研究のための研究にならんようにな。工房は小さな象牙の塔ではないのだから」
「勿論ですとも。あんな人達と同じになりたくないですものね」
この忠告も、全て自分の為なのだ。彼女も頼もしい。
「そうやって、反感を抱いているうちはまだまだだな……
いつか、お前の研究もその連中のものになっても、嘆くなよ」
こういう所もポーシャらしいな。"大人"からの言葉にも、心の明るさはめげなかった。
「私、別に、論文に自分の名前が載らなくても良いんですよ。
だって、見つけた感動は自分しか分からないのですから」
気分の高揚がそう言わせたのか? 否、目立つことは金銭的利益を得ることも大いにあるが、見返りに支払わなければならない代償に比べ、それは魅力的には見えないのだ。だから、成果が成果として認められれば、それ以上人の目に付くような事にはなりたくない。
「そうか、その心構えを忘れるんじゃないようにな」
そこまで話すと、ポーシャは手を振って帰って行った。もう少し話したかったのに。楽しい話を。
人は言う。幸運の女神は常に準備された者の心に宿ると。
条件が数え切れないほどあったにせよ、何処かで引っかかる条件に躓く。平らな、代わり映えのしない平面に、突起を見つけることが出来る。これは運であり、運とは統計であり、数を重ねるごとに、偶然は必然に近づく。
人間は、躓いた時にこそ多くを学べるのだ。小さな突起から手探りで探せば、大きな山を見つけることが出来るだろう。彼女は着実に、発見の臨界へ迫っていたのだ。
※幸運の女神は常に準備された者の心に宿る
-ルイ・パスツール
作品名:充溢 第一部 第十話 作家名: