充溢 第一部 第九話
第9話・2/4
余所の国、他の都市において、所謂高級レストランが登場するのは、ずっと時代を下ってからの事だ。
このボロンナイトライドに於いて、それがこの時期、既に存在していた理由は不明だ。包囲戦となった時、食糧を国が一括管理した影響だとか、また、庶民の生活レベルが高かく、中流階級を相手にする方が儲かったとか、史家によって議論されるところであるが、どれも決め手ではない。所詮はこじつけだ。
「アントーニオさん。今日は流石に言葉遣いも気にするんですね?」
高級を装う内装は、ポーシャの屋敷で十分に慣らされているけれど、客層や店員の視線から来る雰囲気を刺激的に感じていた。だから、それを紛らわすために、わざわざこう言う意地悪を言ってみたくなるのだ。
「嬢ちゃんの女主人も大層なものだがな」
「こういう所では、ああやって子供っぽくして人をおちょくるのが好きなんですよ。あの人は」
ポーシャは、駄々をこねる年頃の子供を上手く演じて、ある店員を困らせては、また、別の店員には可愛がられては、無邪気に笑っていた。
「不機嫌そうだな」
向かいに座るアントーニオはいつかと打って変わって紳士的だ。この男は、どんな風にでも変わり身が出来そうだ。
「緊張しているだけですよ。貧乏人の娘ですし」
「そう言うな。折角の高いメシなんだからな。楽しめ」
料理ほど価値の滑稽さについて考えさせられるものはない。対価として、社会的評価として、歴史として、自らの舌に対して。貧しさの中ではそんな事も言っていられない――豊かさが進むにつれて、状況は複雑になるのだ。
「せいぜい勉強させて頂きますよ。
あんまり美味しくない料理を我慢する勉強を」
「やっぱり、そう思うか」
「これを美味しいと言うのは、正気の沙汰じゃありませんね。
誰かが美味しいと言ったから、誰もそれを覆せないだけですよ」
大袈裟に言ってみたのは、アントーニオと同意見なのが、癪に障ったからだ。
「旨い店だってあるんだぜ。こんな具合の店でもな」
それはあるのだろうけれど、それを食する人の味覚なんて信じられるものではない。
「食通とか美食家なんて人々は、さぞかし美味しいものを食べているのでしょうけど、それを言葉にした所で何の意味があるか分かりませんね。
その時感受したものを言葉にするなら詩人に任せればいいじゃないですか? どうせ、味なんて伝達できないのですから」
「それを言うと身も蓋もないな。しかしな、ああいう言葉をありがたがる人もいるんだぜ? 勘弁してやれよ」
勘弁ならない話だ。テーブルが間延びしていくのを感じた。
「そう言う人は、人が美味しいと言えば何でも美味しく感じるのですよ。
芸術でも何でもそうですけど、自分自身の中でそれを受け止めて、その結果、何を感じたのかって言うのが本質じゃないですか。そのような精神がない人は、いま口の中にあるものが何であるかさえも分からないから、他の人と都合を合わせるように――人から見て恥ずかしくないように振る舞う事ばかり考える。だから、誰かが評価する事を求めるんです。
それは美食家や著名人の言葉だったり、料金や行列の長さだったりするんですよね。そうやって、味わうことさえ人から借りて、何にも疑わない」
男の顔を見て、自分でも詰まらない話だったなと、意気は萎れてしまった。
「なかなか辛辣だな。お前さん、金持ちがそんなに嫌いか?」
正直言えば"はい"と答えたいところだが、例外も多い――ポーシャなんか。
その当人は、横ではしゃいでいる。名前を出しづらいではないか。
目線が彼女に向いていることに気付いて、アントーニオは笑い出した。
調子のいい男の横っ腹に一撃を与えたくなった。
「自分で考えることをしない人が嫌いなだけです。
お店の前で、行列を作っているのを見ると、あの人達は何を考えて並んでいるんだろうなぁ。って考えるんですよ」
あしらうつもりが、意表を突かれたと見えて、アントーニオは笑うのをやめた。
「何も考えちゃねぇよ」
「そう言う事が実際に可能なのでしょうか? 考えないということが」
自分にとって、生きることと考えることは不可分なのだ。
「嬢ちゃんが思っているような人間だけが人間じゃねぇんだな。
あ、いや――そうじゃねぇ人間の方ばっかりだな」
アントーニオはそれ以上、その話題を続けたくないと言うので、この料理には何が足りないのか、と言う議題に話が移った。
「香辛料で舌を刺激しさえすれば、それが味覚になると信じているんですね。
お肉も柔らかくて、さぞかしお高いのでしょうけど、そのせいで、ちぐはぐな印象があります。高かろう旨かろうって人には丁度いい目眩ましですね」
素材の味は一流だった。それ故に、悪い肉に使うほどの香辛料は不要だ。あきらかに勿体ない調理法だ。
「そう言えば、どこかの美食家が、庶民の食い物を"戯れに"食べて、散々こき下ろしていたなぁ」
男は話題を変えようとしていた。
「それはそうでしょうね。お金持ちは庶民とは違うものを食べているって、優越感のためにお金を出しているのですもの」
しばしば、庶民を馬鹿にして楽しむ小金持ち連中がいるが、これは所詮近しい位置に自分が居るのだと言うことを自覚しているからなのだ。自分の地位を確かなものであると自分に見せたいが為にそうしているだけだ。
比較なんて不要な人は、上を見て嫉妬することもないし、下を見て高慢になる事もないのだ。高貴とはこう言う事を指す。
「やっぱり、嬢ちゃんは、金持ちが嫌いなんだな」
「ポーシャは好きですよ。貴方もそれほど嫌いにならないで済みそうですし」
しつこく聞かれたので、正直に答えてみた。幸い、ポーシャは遠く離れていた。
「嬉しいこと言ってくれるねぇ。
でもな、そう言う態度は男に好かれないぞ。もっと単純にならないと」
単純な女も、それを求める男も、程度が良くないと信じ切っているので、この発言には腹が立った。
「別に、男の人に好かれたいとも考えませんもの。いい思い出もないし」
「昔そうやって強がっていた女がいたなぁ」
知ったことか!
「私はその人ではないし、その人だって、貴方が知っている以外の所で、人生を楽しんでいるかもしれませんよ。
貴方だって、ご結婚なさらないでしょ?」
この男は、永遠に遊び人をやっていそうだ。むしろ、この男が所帯を持つなどと言い出したら、さぞかし魅力は失われることだろう。
「そればっかりは俺にも分からないな。いつ、どんな素敵な出逢いがあるか分かったもんじゃねぇしな」
「馬鹿馬鹿しい――男の人って、みんなそんなものかしら?」
「そうじゃない男は、間違いなく腑抜けだぜ。マクシミリアンだって、本当はそう言うのを内に秘めているのさ。表に出すのが怖いだけでな。
本当の部分まで、そんな風な男がいたとして、そんな男だらけになったら、国はお仕舞いだな」
アントーニオの余裕を見ると、確かにそれも一理あるなと納得してしまう。
悪戯にも飽きたのか、ポーシャが帰ってきた。
黙っていて教養がないように見られるのも嫌なので、店員の手前、子供に注意を試みる。
「ポーシャ……ネリッサがいないからって、おいたはダメですよ」
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