桃太郎
風聞というものは思っているよりも怖いもので、聞く者にはさもそれが真実であるかのように語りかける、そんなちからがある。たとえ聞きはじめは半信半疑であっても、それが何度か重なるうちに知らず知らず信じてしまうのが人の性というものだろうか。そうなったら次、気付くころには自身がその発信者となっているわけで、つまり傍観者とは有って無いようなものなのかもしれない。
青く澄み渡った青空の下、通りを歩く人間のふたりを横目で睨みながら、草むらにいる雉はそのふたりを馬鹿だと嘲った。
「人間が桃から生まれるわけがない」
と、その言い分はこうである。いま騒がれている噂を根本から否定する言葉だった。その噂を今一度耳にして、その気持ちはさらに増した。人は人から生まれて然るもので、よって桃から人が生まれたというのならばそれは人の皮を被っただけの妖怪で、そしてそれ以外の何物でもないだろう。そんな風に雉は不快ささえ持って風に耳をそばだたせるのであった。
だから。
その日のうちに桃太郎と対峙するに至ったとき、雉は自らの境遇を疑った。決して会うはずがない、会おうとも思わなかった。さすがに、会ってたまるか、という能動的な嫌悪は持ち合わせていなかったが、それでも縁が交わることを予想していなかったものだから、その出会いは雉の目を丸くさせた。
それでも唐突こそが出会いの真髄とするならば、その出会いもやはり常套でしかないのだろう。
「鬼退治にいく」
と言った。いや、これは桃太郎が言ったのではない。猿が言った。
「おまえも付いてこい」
やはり桃太郎がその言葉を唱えたわけではなく、これは犬が言った。
桃太郎はふたりの従者を連れていて、それが猿と犬だった。主人は語る気配を見せずただ黙すばかりで、言を発するはその従者ばかりである。
「鬼とはなんだ」雉が問う。
「おまえは何も知らないのか」猿が呆れる。「鬼とは鬼だ」
「どこの鬼かと訊いている」
「鬼ヶ島の鬼以外、他にあるか」犬が吐き捨てた。
昨今、近隣の村々で鬼が騒ぎを起こしているのは雉とて知らないわけではない。略奪は単なる物に限らず人間や牛馬などにわたり、その被害、甚大では済まされない。そろそろ討伐の隊が組まれるころだろう、とこれは雉が予想していたことだった。
「なぜ討伐隊に任せない」
だからそのことを雉は訊いた。
「武士は縮こまっていて使えない」ここでも犬は吐き捨てる。「だから我らが行く」
「ひとりと、二匹でか」
訝しむ雉の言葉に、猿は得意げに返す。
「おまえを入れれば三匹だ。だからおまえも付いてこい」
「武士らが使えないのはわかったが」雉は未だ釈然としない。「だからと言って、なぜそこなる桃太郎殿が単騎で向かわねばなるまいのだ」
「それは決まっている」猿が胸を張る。
犬も同じく胸を張った。
「桃太郎さんが持つ義勇の心がそうさせるのだ、たとえひとりでも平和を取り戻すと。そして我らはそれに賛同し、そして決死の覚悟を決めたのだ」
雉の怪訝は増すばかりだった。従者二匹の雄弁さに比べ、それらを従えているはずの桃太郎は唖者のごとく喋らない。そして雉の耳に届く言葉はいかにもな詭弁で、桃太郎自身が語ったとは到底思えない。このふたつの光景に閉口してしまった。
それを渋っている、と解した猿と犬は、「行きたくなければ、それでいい」と気分を害し、踵を返してしまう。
桃太郎も結局は何ひとつさえ話さずそれに倣い、その姿はどちらが連れて連れられている関係なのかわからない有り様だった。
雉はそんな一行の後ろ姿を見遣り、そして声をかける。
「いやいやいや。行かないとは言っていないが」
そして雉はきびだんごをたったひとつ、くちばしに入れた。
人の第一印象は重要、と言われるわりにそれがすべてとは言いがたく、二度三度と重ねて付き合いを保っていく内に先に持った人物観は払拭、ないし薄れていくものである。それは第一印象が強烈であればあるほどそうなっていく傾向にある。その補正を、その人物への理解に及ぶ、と表現するのかもしれない。
火のとうに落ちきった深夜。草木さえ眠り静寂な空気の中、起きているのは雉とそして桃太郎だけだった。元来鳥目な雉の視界は人が周囲を見渡すに適う月明かりの下でも、まったく見えない暗闇だった。もぞもぞという動きを耳で聞き、それに向かって問いかける。
「桃太郎、さん」
それに桃太郎は小さく返す。「なんだ」と。
雉が従軍に就いてから意外に思ったのは、桃太郎は寡黙なだけであるということだった。少なくとも唖者の類いではない。話を振れば意外に話す。逆に振らなければ自ら話し出すことはない。
「桃から生まれたのは本当か」
いま、雉は話を振っているのだった。
それに対する桃太郎の答えはあやふやなものだった。
「わからない」
「わからないとはどうだ。自分のことだろう」
「生まれたときのことなど憶えてないのが普通と思うが」
雉はそれに納得した。
桃太郎は続ける。
「一番古い記憶から、俺はジジとババと一緒に暮らしていた。そのふたりが言うんだからそうなんだろうよ。だが、俺はそのことの真偽は知らない。いま普通と言ったが、普通、人は桃から生まれない」
おれは普通ではないのかもしれないな、と桃太郎は自虐した。その声は笑ってなどいなかった。
雉も笑わない。代わりに訊いた。
「どうして鬼退治をしようと思ったのだ。遊びではない。死ぬぞ。下手をすれば、ではない。この戦力で向かうこと自体が下手だ」
桃太郎は少しの時間考え、やがて口を開いた。
「俺がもし本当に桃から生まれていたとして、その生まれ落ちた意味を考えていた」
気付いてからずっと、と桃太郎は付け加える。
「その意味を鬼退治に求めるか」
「不明だ。しかし試したいことはすでに叶った。腹を痛めて生んだ子供が鬼退治をしたいと言い出したなら、その親は真っ赤になって止めるだろう」
桃太郎は、ここにいる。
「人が悪すぎる」雉は気分を害した。「そんなことは個々の家々で、しかも時々によって変わるものだ。それによって簡単に決められはしないし、ましてやそこまで育てられたことは事実だろう」
「それはそうだろうとも。だが、結果俺はここにいるのだ。それならばそれで構わない。そうなったらいよいよ俺の桃から生まれた意味は鬼の退治になってくる、それだけだ」
この会話のなされた詳細な時代は不明だが、運命という言葉はなかったはずだ。あれば桃太郎はそれを用いたのかもしれない。
「まだ寝ないのですか」
眠り眼の犬が水を差す。
「いや、もう寝る」
桃太郎はそう言って、眠りへと落ちていった。
雉は憮然と、その寝息を闇の中で聴いていた。
気持ちの蟠りとは晴れるまで滞り続けるもので、たとえば雷に打たれるような強い外的な力が働けば予兆もなしにすっかりと晴れ渡ることもあろうが、それはあてにできるほど多くない。空は相変わらず晴れ渡っている。
雉は未だ気分が晴れずにいた。猿と犬が櫂を漕いでいる小舟の上で無口のまま波に揺れていた。
「おまえも代われ」
猿が言うのだが、雉は請けない。
「漕ぐための腕がない」
犬が唸る。口で以て漕いでいた。
「俺が代わろう」
青く澄み渡った青空の下、通りを歩く人間のふたりを横目で睨みながら、草むらにいる雉はそのふたりを馬鹿だと嘲った。
「人間が桃から生まれるわけがない」
と、その言い分はこうである。いま騒がれている噂を根本から否定する言葉だった。その噂を今一度耳にして、その気持ちはさらに増した。人は人から生まれて然るもので、よって桃から人が生まれたというのならばそれは人の皮を被っただけの妖怪で、そしてそれ以外の何物でもないだろう。そんな風に雉は不快ささえ持って風に耳をそばだたせるのであった。
だから。
その日のうちに桃太郎と対峙するに至ったとき、雉は自らの境遇を疑った。決して会うはずがない、会おうとも思わなかった。さすがに、会ってたまるか、という能動的な嫌悪は持ち合わせていなかったが、それでも縁が交わることを予想していなかったものだから、その出会いは雉の目を丸くさせた。
それでも唐突こそが出会いの真髄とするならば、その出会いもやはり常套でしかないのだろう。
「鬼退治にいく」
と言った。いや、これは桃太郎が言ったのではない。猿が言った。
「おまえも付いてこい」
やはり桃太郎がその言葉を唱えたわけではなく、これは犬が言った。
桃太郎はふたりの従者を連れていて、それが猿と犬だった。主人は語る気配を見せずただ黙すばかりで、言を発するはその従者ばかりである。
「鬼とはなんだ」雉が問う。
「おまえは何も知らないのか」猿が呆れる。「鬼とは鬼だ」
「どこの鬼かと訊いている」
「鬼ヶ島の鬼以外、他にあるか」犬が吐き捨てた。
昨今、近隣の村々で鬼が騒ぎを起こしているのは雉とて知らないわけではない。略奪は単なる物に限らず人間や牛馬などにわたり、その被害、甚大では済まされない。そろそろ討伐の隊が組まれるころだろう、とこれは雉が予想していたことだった。
「なぜ討伐隊に任せない」
だからそのことを雉は訊いた。
「武士は縮こまっていて使えない」ここでも犬は吐き捨てる。「だから我らが行く」
「ひとりと、二匹でか」
訝しむ雉の言葉に、猿は得意げに返す。
「おまえを入れれば三匹だ。だからおまえも付いてこい」
「武士らが使えないのはわかったが」雉は未だ釈然としない。「だからと言って、なぜそこなる桃太郎殿が単騎で向かわねばなるまいのだ」
「それは決まっている」猿が胸を張る。
犬も同じく胸を張った。
「桃太郎さんが持つ義勇の心がそうさせるのだ、たとえひとりでも平和を取り戻すと。そして我らはそれに賛同し、そして決死の覚悟を決めたのだ」
雉の怪訝は増すばかりだった。従者二匹の雄弁さに比べ、それらを従えているはずの桃太郎は唖者のごとく喋らない。そして雉の耳に届く言葉はいかにもな詭弁で、桃太郎自身が語ったとは到底思えない。このふたつの光景に閉口してしまった。
それを渋っている、と解した猿と犬は、「行きたくなければ、それでいい」と気分を害し、踵を返してしまう。
桃太郎も結局は何ひとつさえ話さずそれに倣い、その姿はどちらが連れて連れられている関係なのかわからない有り様だった。
雉はそんな一行の後ろ姿を見遣り、そして声をかける。
「いやいやいや。行かないとは言っていないが」
そして雉はきびだんごをたったひとつ、くちばしに入れた。
人の第一印象は重要、と言われるわりにそれがすべてとは言いがたく、二度三度と重ねて付き合いを保っていく内に先に持った人物観は払拭、ないし薄れていくものである。それは第一印象が強烈であればあるほどそうなっていく傾向にある。その補正を、その人物への理解に及ぶ、と表現するのかもしれない。
火のとうに落ちきった深夜。草木さえ眠り静寂な空気の中、起きているのは雉とそして桃太郎だけだった。元来鳥目な雉の視界は人が周囲を見渡すに適う月明かりの下でも、まったく見えない暗闇だった。もぞもぞという動きを耳で聞き、それに向かって問いかける。
「桃太郎、さん」
それに桃太郎は小さく返す。「なんだ」と。
雉が従軍に就いてから意外に思ったのは、桃太郎は寡黙なだけであるということだった。少なくとも唖者の類いではない。話を振れば意外に話す。逆に振らなければ自ら話し出すことはない。
「桃から生まれたのは本当か」
いま、雉は話を振っているのだった。
それに対する桃太郎の答えはあやふやなものだった。
「わからない」
「わからないとはどうだ。自分のことだろう」
「生まれたときのことなど憶えてないのが普通と思うが」
雉はそれに納得した。
桃太郎は続ける。
「一番古い記憶から、俺はジジとババと一緒に暮らしていた。そのふたりが言うんだからそうなんだろうよ。だが、俺はそのことの真偽は知らない。いま普通と言ったが、普通、人は桃から生まれない」
おれは普通ではないのかもしれないな、と桃太郎は自虐した。その声は笑ってなどいなかった。
雉も笑わない。代わりに訊いた。
「どうして鬼退治をしようと思ったのだ。遊びではない。死ぬぞ。下手をすれば、ではない。この戦力で向かうこと自体が下手だ」
桃太郎は少しの時間考え、やがて口を開いた。
「俺がもし本当に桃から生まれていたとして、その生まれ落ちた意味を考えていた」
気付いてからずっと、と桃太郎は付け加える。
「その意味を鬼退治に求めるか」
「不明だ。しかし試したいことはすでに叶った。腹を痛めて生んだ子供が鬼退治をしたいと言い出したなら、その親は真っ赤になって止めるだろう」
桃太郎は、ここにいる。
「人が悪すぎる」雉は気分を害した。「そんなことは個々の家々で、しかも時々によって変わるものだ。それによって簡単に決められはしないし、ましてやそこまで育てられたことは事実だろう」
「それはそうだろうとも。だが、結果俺はここにいるのだ。それならばそれで構わない。そうなったらいよいよ俺の桃から生まれた意味は鬼の退治になってくる、それだけだ」
この会話のなされた詳細な時代は不明だが、運命という言葉はなかったはずだ。あれば桃太郎はそれを用いたのかもしれない。
「まだ寝ないのですか」
眠り眼の犬が水を差す。
「いや、もう寝る」
桃太郎はそう言って、眠りへと落ちていった。
雉は憮然と、その寝息を闇の中で聴いていた。
気持ちの蟠りとは晴れるまで滞り続けるもので、たとえば雷に打たれるような強い外的な力が働けば予兆もなしにすっかりと晴れ渡ることもあろうが、それはあてにできるほど多くない。空は相変わらず晴れ渡っている。
雉は未だ気分が晴れずにいた。猿と犬が櫂を漕いでいる小舟の上で無口のまま波に揺れていた。
「おまえも代われ」
猿が言うのだが、雉は請けない。
「漕ぐための腕がない」
犬が唸る。口で以て漕いでいた。
「俺が代わろう」