短編・『湯西川(ゆにしがわ)』にて 1~5
湯西川にて(5)二度目のお誘い
平成に入ってから湯西川温泉では、真冬の
新しいイベントが始まりました。
それが、「光輝く氷のぼんぼりと、かまくら祭」です。
今市(いまいち)市から鬼怒川温泉あたりまでは、
それほど降雪はありません。
しかし、その先へ伸びる奥鬼怒の湯西川への山道は、
進むにつれて雪の量が増え、やがて山肌を真っ白に閉ざしてしまいます。
多い冬には、それが1mを越えました。
北越地方の「かまくら」をまねた冬の遊びかたが、
昔から伝えられてきましたが、近年になってそれが観光化されました。
幻想的にライトアップされた氷柱と、淡いぼんぼりの揺らめきが、
冬の湯西川の新しい風物詩へ生まれ変わりました。
昭和40年後半の湯西川温泉には、
気軽に山間の雪景色と温泉の風情が楽しめると有って、
団体客やグループ客が、
わざわざ積雪の時期を狙って集まってきました。
雪道を走るとはいえ、30分ほどの山道を抜けさえすれば
もう、日光や会津へ続く整備された
観光道路へ出られます。
その夜、顔なじみになった仲居さんに呼び止められました。
9時を過ぎたばかりですが、館内には団体客が3組あるだけでした。
宴席料理を仕上げた後の厨房では、
半分以上の板前が帰り仕度をしています。
宴席の洗いものは、すべてアルバイトに任されていました。
雪が小止みになった様子を確認してから、
傘を使わずに寮まで帰ろうとした、その矢先のことです。
「松雪姉さんからです。」
それだけ言うと、小さく折りたたんだ紙切れを
私の手の中に押し込んで、何事もなかったような顔をして、
足早に立ち去ってしまいました。
松雪は、清ちゃんの芸妓名です
「至急、本家・伴久にこられたし」とだけありました。
本家・伴久は、湯西川にかけられた「かずら橋」を渡った先にある
200年以上の歴史を持った平家ゆかりの、
老舗旅館です。
この「かずら橋」には、
平家の落人たちが、敵兵から逃れるために、
かずらを切って橋を落としたという古い伝説が残っています。
芸妓は、
十二月から二月にかけては、
二枚重ね(にまいがさね)を着用します。
着物を二枚重ねて着るから「二枚重ね」と呼び、
今のように暖房も発達していませんので、
防寒の意味も含めて、着物を重ねて着ていたようです
特にお正月は、元旦から松の内の間において、
黒紋付の二枚重ねを着用しました。
一般でいう留袖にあたり、芸妓さんの正装にあたります。
松の内の間は、頭につける挿し物も特別で、
白い鳩が稲穂をくわえた形のかんざしと、
その年の干支の挿し物を飾ります。
この鳩のかんざしのことを「とりこめ」(鳥と米)と呼び、
新年最初のお客さまや、好きな人に朱で目を入れていただくという
古くからの習慣がありました。
なお、三月から五月にかけては、袷(あわせ)の
着物に変わります。
これを二枚重ねに対して「一枚着」と呼んでいます。
さらに五月から六月にかけては、単(ひとえ)になります。
二枚重ねや、一枚着の裾にある「ふき」が、
単の着物からはなくなります。
「ふき」というのは、裾の周縁ぐるり、裏地を表に返して
綿を入れた部分のことです。
これは裾がきれいに広がるように、
重しの役目を果たすといわれています。
六月から九月までが、絽(ろ)の着物の季節です。
そして再び、九月から単、十月からは一枚着になります。
芸妓さんは季節にあわせて、頭の挿し物や、
着物の柄が変わってゆくのです。
「松飾りがあるうちに、来るかと思った居たのに、
待てど暮らせど、来やしない。
今日は松もぎりぎりで、すでに7日です。
(今年の鳩は、いまだに目が明かないままなのよ、どうすんのさ。)
悔しいったらありゃしない・・・この、とうへんぼく。」
「急用かい?」
と、問いかけたこちらの顔を見もせずに、
さっさと立ち上がった清ちゃんは、フロントへ飛んでいき、
本家・伴久の若女将に、丁寧な帰りの挨拶を始めてしまいました。
清ちゃんの師匠に当たる、
お春母さんの三味線の弟子と言うこの若女将は、
芸妓の清ちゃんが大のお気に入りです。
温泉街のイベントやお祭りのたびに、
仲良く寄り添うこの二人の姿を
良く目にしたもので、「歳の近い親子の様だ」と
周りでもすこぶるの評判でした。
「雪道になりますので、
この時間ですと、凍っているかもしれませんね。
どうぞ充分に、お足元にはお気をつけて下さいまし。」
にこやかな若女将に見送られて、駐車場に出ると、
清ちゃんが一台の新車を指さしました。
驚いたことに、それは昨年アフリカで開催されたモーター・ラリーで
初優勝を飾ったという、国産メーカーの
スポーツタイプのセダンでした。
「へぇ~、売れっ子芸者は、
車も派手だねぇ、
で、どうするのさ、これからサファリにでも
遠征に行くわけ?」
「罰として、運転して頂戴。」
「罰?
別に、心当たりはありませんが、」
「そうなの・・・
ふう~ん。
松の内がもう、終わるというのに、
私のかんざしはいまだに、目が開かないままなのよ。
小春お母さんには、たっぷりと絞られたし、
若女将にも、意地を張るのも、もういい加減にしなさいと、
ついさっきまで、諭されてしまいました。
もう、泣きたくなってきちゃったなぁ、
あたい。」
黙って清ちゃんから鍵を受け取り、
運転席に座ると、エンジンをかけました。
小気味良い振動と共に、軽いエンジン音が響き渡ります。
黒紋付に着いた雪片をはらりと払って、
少し尖ったままの清ちゃんが、助手席へ乗り込んできました。
さて、行く先は・・・
作品名:短編・『湯西川(ゆにしがわ)』にて 1~5 作家名:落合順平