充溢 第一部 第四話
第4話・5/5
「ポーシャ様!」
昨晩の気まずい気持ちはすっかり消えてしまっていた。こんなの、全く出鱈目ではないか!
この怒りの持って行くところは、結局ここの屋敷しかないのだ。
「全く無茶苦茶じゃないですか!」
いきり立って臨んだものの、いつもの顔で迎えられた。
「お前、何か勘違いしとらんかね。第一に、お前はフランチェスカに一度逢っている」
片眉を上げ、その挑戦的な眼差しを向ける。
考える。ここに来て逢ったことのある人間と言ったら限られている。そして、女となれば……公爵の家で、ポーシャが去り際に口にした名前を思い出す――『フランチェスカによろしく』
「でも、やっぱり、お逢いしてませんよ」
「お前は、肝心なところが鈍いな。あの人形だよ」
うっかりしていたとは考えず、意地悪をされた気になった。
あの状況なら、公爵の家にフランチェスカと言う人間が、留守にしていたと考えたとしても、何もおかしくない。
頭がヒートアップする――が、あの人形を思い浮かべると、妙に納得する。納得した上で、やはり納得できないことの方が多い。
「大体、あの人から逃げ回る必要ないじゃないですか」
ポーシャは、さも学術的な知識を披露するかのように語り始めた。
「彼女には、私の姿はフランチェスカに見えるんだよ。
お前さんと出会ったとき、大丈夫だったのは、顔が隠れていたからだよ」
「薬の影響ですか?」
ポーシャに険しい顔を突き刺そうとする。
「自業自得とでも言いたいのかね? 残念ながら、それが彼女の病気だよ」
意を見抜かれて、気分は更に険しくなる。
「落ち着きたまえ。君が考えにふけるのに格好のネタになるだろう」
窓際へと歩き、逆光に表情を隠し、とつとつと始める。
「あれはちょっと……私にとってはちょっと前の出来事だ。まだ、彼も彼女も若かったなぁ。
継承戦争の頃だよ。ペロブスカイトの王様が死んだ後に、北方のフィシャルが介入したってアレだな。
ペロブスカイト側に付いたが最後、めっためたにやられてな。助太刀どころでなくなった。
そんなときに登場したのが、司令官オーシーノ――今の総督、お前の苦手な公爵だな」
「苦手って訳じゃないですよ」
気持ち悪い印象は嘘ではないが、名君の誉れはしばしば街頭でも話題にされる。ネリッサの言葉もある。例外的な部分を抜いて集めてみれば、物腰、立ち居振る舞いも立派な紳士である。
「あの頃は、本当に格好良かったんだぞ」
あの端整な顔立ちは、憎らしくも格好良かった。その上若かったときを考えれば、言うまでもない。
「上手く立ち回ってボロンナイトライドは独立を勝ち取った。アイツが今の地位にあるのはそのお陰だ。
――こんな時期に、男って言うのは抱擁を求めるものでな。そこからすると、時の奥様は、全くそう言う女ではなかった。元々、好き同士で結婚した訳でもないからな……とにかく、不仲だったよ。
そこに若くて美人、器量よしの賢いメイドなんていたら、話は単純だな」
「やっぱり男って」
苦手だ。男と言う生き物は理解しがたいと言う以上の何かがある。
「奴にしても、他の男にしても、何かしか良いところはあるさ」
「具体的には?」
「具体的か……
やっぱごめん」
本当に見つからないって訳ではないだろう。おどけてみせるのは、照れ隠しなのだ――彼女に他意はないと自分に言い聞かせる。
「何はともあれ、上手く立ち回った功績は、彼女にも送られるべきだったんだが、そんなに寛容な人間ばかりでないのが人の世だ。
まだ若かったから、周囲は跡取りの心配もしていないし、正妻の実家との関係もあってな。母子はオーシーノと引き離された。
架空の貴族の未亡人って立場を作ってやってな。手切れ金を払って適当な屋敷に放り込まれた。
彼女の精神的荒廃は、この時期に端を発するらしい。私の見立てでは、あれは薬を盛られていたな。
その後は、子供が死んだりして転げ落ちるように――惨い話だ。私も言えた口ではないが」
ポーシャが言葉を句切り、人目こちらを伺うが、口は挟めないままでいた。
「紆余曲折あって、儂は養女という形で、彼女と暮らすことになった。
擬似親子関係は、案外幸せなものだったよ――だからこそ、儂は彼女を治療しようとした。
催眠術も薬も、私の知識を総動員したんだよ。
しかし、足を速める事ぐらいにしかならなかった」
影はうなだれる。
「彼女は、遂に儂を娘と混同するようになった。
最初は、それでもよいかなと思い込もうとした。何せ、この身体だから、彼女の記憶がそうである範囲で、ずっと一緒にいられるのだからな。
しかし、それも部分でしかなかった。混同と共に、彼女は差異が我慢ならなくなった。狂喜と殺意が交互に訪れた。限界に達した事を悟ったね。
結局、儂は彼女を救えなかった。
彼女は、亡くなった娘をこの街の中で永遠にさまよい求めているのさ。そうさせているのが、一番安定なのだ」
「でも、このままじゃ!」
ポーシャは、窓辺より一歩出て明るみに立ち入ると、眼光鋭く立ちはだかった。
「スィーナー・ベーコン、良く聞き給え。
心の闇というものは、自尊心の強い人間が持て余している程度のものでは、決して埋めることは出来ないのだ。
自惚れ屋と言うのは、人を救う誉れを得ようとして、常に弱った人間を探している。
それが人の醜くもあり、美しくもある部分の動力だ――誇りを汲み出す源泉を何処に見いだせるかの違いでな。
多くの人に必要なのは、自分の権能の及ぶ範囲をしっかりと把握することだ」
これ以上、食い下がることは出来なかった。
近づいた彼女との距離は、この事件でまた遠ざかり、この発言で再び修正される。
ポーシャとスィーナー、斥力と引力が合わさった遊星のようなものだ。遠ざかれば近づき、近づけば遠ざかる。
床が緋々と染まっていた。
作品名:充溢 第一部 第四話 作家名: