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充溢 第一部 第四話

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第4話・1/5


 フラスコの中で薬品が煮える。蒸気はガラスの長い煙突を上がる途中で冷えてまたフラスコに落ちる。空気冷却器を用いた還流である。
「眺めていて楽しいのは、蛇管ね」
 垂れるしずくを眺めると心落ち着く。
 ――何か来る!
「スィーナー、遊びに来てやったぞ!」
「ポーシャ様!」
 予感はしていても、突然のことには脅かされる。
「帰れと叫んでくれたら楽しかったのにな」
「幾ら慣れてもそれは出来ませんよ」
 正直な話、それが出来れば、そうしたいぐらいの気分だ。心穏やかに仕事をしていたのを邪魔されたのだから。
「習慣とは怖いものだからな、あまりそう言う約束はしない方が良いぞ」
 確かに、この生活が続いて、そう言う事の言い合える仲になるのも悪くない――しかし、怖いのは、どうすれば良いか分からない事だ。その距離感が分からないままこの歳になったのだから。
 こんな思考に囚われているときでも、いらない事に対する洞察力だけは鋭敏である。
 ポーシャは後ろ手にドアを閉めていた……
「まさか、またエリザベッタさんですか?」
「お、察しが良くなって来たな。
 さすが、儂が見初めた娘だ」
 あまり褒められるべき所ではないし、喜ぶべき所でもないが、どことなく嬉しかった。多分、これが人に近づくと言う事なのだろうか。
「はぐらかそうとしないで下さい。
 そもそも何者なんですか?」
 なかなかずるい事を思いついたものだ。
 このまま追い返すなんて選択肢はないし、ここにいて貰っても迷惑はない。こちらから払うコストはないのに、それがあるかのような顔をしているだけで、必要以上に話が聞けるのだ。これはなかなか良い買い物である。
「何者も何も、この街の貴族だよ。
 こんな身体だからな、後見人らしいものを立てておかないと、何かと不便でな」
 この期に及んで、その異常さ、不思議さに気付く。自分のはまり込んだ状況があんまりにも急進的だったから、構うことがなかったのだ。
「別に逃げる必要ないじゃないですか」
「こんな身体で、無駄に長生きしているとな、その辺を上手く扱うことが難しいのだ。
 だから、薬と催眠術でな、ちょっと記憶をちょちょいと」
 スィーナーは言いようのない怒りを感じた。ポーシャの物言いがあまりにも雑だったからである。
 この錬金術師は、その母の代から記録と記憶に関する、人並みならぬこだわりを持っている。
 母があんな村に引き篭もってからも、錬金術に固執し続けたのは、偏に、自らの頭の中に作られた、一つの世界が、自らの死と共にたちどころに消えてしまう事への恐怖であったからだ。
 あざなわれた一条の縄が、世界に再び結び付けられる事なく終わってしまえば――世界を織り成すこの網に何の寄与する事もなく、根っこから断ち切られてしまえば、この一連の作業すべてが全くの無駄骨。それどころか全く無かったことと同じになってしまう。
 それは、死の恐怖に向かうよりも、一層深刻な思想であった。
 スィーナーと母の距離は、この太い紐帯によって結ばれ、その太さ故に近くに寄れないでいた。

 この日、ポーシャが工房に突入する予感も、悪戯っ気を出して、エリザベッタの事を聞いてみたりしたのも、全ては、この為に用意されたよう疑えるほどだった。
「何をしれっととんでもない事言っているんですか!
 記憶って、言ってみれば、その人自身じゃない」
「悪く言うな……私は、この街が好きだからな。仕方がない」
 この豹変に、ポーシャは子供がそうするような、拗ねたような、怖ず怖ずした表情となった。
「仕方がないって、どう言うつもりですか。
 例えば、貴方が、その薬と術に掛かって、記憶が全部、他の何者かにすげ替えられてしまったら、どうします?
 そして、今までの思い出、経験したこと、学んだこと全てが消されてしまったら、どうします?
 なんて恐ろしい事でしょう。
 殺されてしまった方がいいぐらいに!」
 説教は続く。
 子供に対して説教をするときは、あまり理詰めで責めてもいけないと言う。子供が置いてけぼりを食らうようでは、もはや、言っていることはノイズと化してしまうからである。
 そうやって育った子供は、将来あらゆる説教に対して、同じような態度で臨み、同じ結果を繰り返すようになるのだ。
 若い娘には、そんな理屈があるわけでもなく、説教はくどく続く。
 ポーシャの顔が泣き出しそうになる。
「私は東の悪い魔女なんでな」
 何の釈明にもならない言葉。この年寄りにして、この言葉が出てくるとは。
 その後の記憶はあまりない。こっぴどく叱って追い出したと言うぐらいしか。
 冷却器から、反応液が滴る。
作品名:充溢 第一部 第四話 作家名: