メトロポリスの空
メトロポリスは眠らない街だ。
坂上芙蓉は、外から聞こえる車のエンジン音で目を覚ました。目覚まし時計なんて必要ないくらいの騒音だ。
布団から出たところで芙蓉は身を震わせる。最近急激に寒くなって来た。今夜辺り毛布を出そう。そう思ってピンクのパジャマを脱ぎ捨てて、学校の制服に袖を通した。
「おはよう、芙蓉」
部屋を出ると、兄の一樹が朝食の支度をしていた。兄が当番の日はいつもご飯に玉子焼きに味噌汁という定番のメニューだ。それでも芙蓉は文句を言わずに朝食を食べる。これでも最初の頃に比べたら美味しく作れるようになった方なのだ。最も、芙蓉が朝食当番の日は有無を言わさずトーストと目玉焼きなのでお互い様だった。
「もうご飯できるから顔洗ってこいよ、後ろ髪はねてるぞ」
そういう一樹の後ろ髪もぴょんとはねている。そのことは一樹に教えず「うるさいなあ」と一言悪態をついてから芙蓉は洗面所に向かった。一樹は拗ねた声で「うるさいってなんだよ」と呟いた。
容姿を整えて部屋に戻ると朝食の準備が出来ていた。一樹は爽やかな笑顔を浮かべて机の前に座っている。そして2人揃って手を合わせれば、いつもと同じ朝食の始まりだった。
芙蓉の両親は5年前、芙蓉が10歳のころに交通事故で亡くなった。車に轢かれて即死だったそうだ。
それからはずっと10歳年上の兄が親代わりとなって一緒に暮らしている。
朝食の片付けを終えて、両親の仏前に手を合わせると一樹はクリーニングに出したばかりのスーツを羽織って鞄を手に抱えた。
芙蓉は首を傾げる。まだ一樹が出勤する時間には程遠い。
「お兄ちゃんもう行くの」
「ああ、最近昇進も決まってさ。忙しいんだよね」
「えっ、昇進。すごい」
「大したことでもないよ」
一樹は爽やかに笑って立ち上がった。
「じゃあ、行って来ます」
「今日はカレーだよ」
芙蓉の声に一樹は右手だけをあげる。それが芙蓉の見た最後の兄の姿だった。
1.不確定な方程式
眠らない街メトロポリスは、昼夜問わず活動を続けている。
坂上芙蓉の実兄、坂上一樹が姿を消したのは1週間前のことだった。家を出たあと会社には出勤していない。失踪か、それとも何らかの事件に巻き込まれたのか。警察はどこかで遊んでいるんだろうと嘲笑した。26の男が家に帰らなくなるくらいよくあることだと言いたかったらしい。
しかし、一樹に限ってそれはないだろうと芙蓉は確信していた。
何故なら一樹はいつだって芙蓉のことを一番に考え行動してくれたからだ。それに一樹を知る人間ならば誰もが口をそろえて言うほどに一樹は真面目な男だった。そんな兄が私を残し失踪などするわけがない。芙蓉はそう確信していた。
兄が姿を消しても、馬鹿正直に学校へは行っていた。食事も睡眠もろくに取っていないため授業など耳に入らなかったが。
首が痛くなるほど高いビルを見上げながら家への道をガードレール沿いに歩く。
先ほども警察に行って散々叫んできた。警察の態度から察するに芙蓉はよっぽどの厄介な相談者であったらしい。半ば無理やり追い返されたのだ。芙蓉は唇を尖らせる。
「やっぱり、誰もあてにならない」
両親が死んでから親戚との関わりは一切なかった。芙蓉にとって頼れるのは兄の一樹ただ1人であった。ところがその兄が姿を消してしまったのだ。最早芙蓉には頼れる相手が居なかった。
なんとかしなければ。そう思うも、やはり芙蓉自身の力ではどうにもならないのが現実だ。
一体兄はどこへ行ってしまったのだろう、私を置いてどこへ行ってしまったのだろう、無事なのだろうか、私の元へ帰ってきてくれるのだろうか。その想いだけが芙蓉の心を支配する。
ビルの間に埋もれる2階建ての小さなアパートが坂上兄妹の自宅だった。幼い頃はギシギシと鳴る階段が怖いと兄の手にしがみついてよく泣いた。1人でも上れるようになったのは一体いつだっただろうか。
そこで芙蓉は、家の前のガードレールに男が座っていることに気が付いた。
普段ならば、一瞥するだけで終わるのだろうが何故だか芙蓉はその男から視線を離すことができないでいた。まるで何かに魅入られたかのように。
男の艶やかな黒い髪が風で揺れる。
男は芙蓉に気づかない。長い前髪の間から見える白い肌がまるで死人のようだと思った。
唾を飲む音が聞こえる。芙蓉自身のものだった。何故自分は緊張しているのだろう、見たこともないような男相手に。
不意に男が顔をあげた。愛想も何もない無表情だった。年は30前後だろうか、切れ長の黒い瞳が印象に残る美麗という言葉のよく似合う、見目のよい男だった。
すぐに男は視線をそらす。芙蓉は鞄を握り締めて家への1歩を踏み出した。
「坂上さん」
芙蓉は動きを止めた。男が声をかけてきたのだ。見目から想像するよりも随分と低い声だった。しかしよく通る美声であった。芙蓉はぎこちない動作で振り返る。
「ひっ」と思わず声が漏れた。男が芙蓉のすぐ後ろに立っていたのだ。足音はしなかった、気配もなかった。芙蓉の怯えた声に気づいてか気づかずか、男は無表情のまま腕時計を覗いて「5時までに帰ってきてくれてよかった」と独り言のように小さく零した。芙蓉は背が低い。目の前の男は背が高かった。ついでに手足も長い。顔もあわさってまるで雑誌のモデルのようだとぼんやり思った。
「お兄さんは帰ってきたかな。坂上芙蓉さん」
なんでこの人お兄ちゃんのこと知ってるの。見知らぬ男に兄の話を出され、芙蓉は頭が真っ白になった。男は反応を示さない少女を目の前に首を傾げる。そして思い出したように呟いた。
「失礼、名乗ってなかったな。僕は藤堂……藤堂要輔だ。君のお兄さんと同じ職場で働いている者だよ」
「兄と?」
「ああ。怯えさせて悪かった」
「その藤堂さんが、私に何の用ですか」
「要輔でいいよ」
「何の用ですか、要輔さん」
芙蓉の問いには答えない。藤堂要輔と名乗った見目のよい男は「立ち話も何だから、喫茶店にでも入ろうか」と言って、道路の向こう側にある小さな店を指差した。