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眼鏡

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 父のコメントを意外に思ったのか、息子は声を大きくした。
「さあ、どうだかね。特にうちのクラスには手を焼く子が多いんだよ。特にこの子」
 息子は写真の中の特定の子に指をさした。その子は木の枝にぶら下がって、得意げな顔をこちらに向けている。
「この子はきかん坊でさ、授業が始まっても席に着かずに教室の中をうろちょろしてくれて、悩みの種なんだよ」息子は苦笑いを浮かべてビールを口に持っていった。でも目だけは笑っていなかった。「父さんはさ、部外者だからそんな悠長なことが言えるんだよ」
息子はそう言ってグラスのビールを一気に空にして、手酌で新しいビールを注ぎ始めた。男はそんな息子からビール瓶を取って、彼のグラスに注いでやった。それから自分のグラスにも少しだけ注いだ。
 息子は赤くなりはじめた眼で一枚一枚の写真をおぼろげに見つめた。男は少し微笑んで、教員同士の人間関係の方へと意図的に話をそらした。どうやらそちらの方は幸いうまくいっているようだ。
 息子は写真に目をやりつつも、世話になっている先輩教員や、やる気のみなぎっている新任教員の話などをしてきた。
 話が一段落つくと、息子は誰からも見向きもされずに一人働き続けていたテレビの画面にふと注目し、今年のプロ野球のことに話題を移した。
 シーズンオフの選手のトレード話に触れ、日本の球団もそろそろ日本的経営を卒業して、アメリカに倣って合理的ビジネスを目指すべきだと主張した。
 男はやはり黙って薄く笑いながら酒をやっていた。
 眼鏡が、少し曇ってきた。

 その話題が一息ついた頃だろうか。
 息子はテーブルの上に散らかったさっきの写真を再び見始めた。
そして声を低くしてこう言った。
「あれえ、さっきと見え方が違うなあ。父さんの言うことも少しは分かる気がするよ。写真の中の動かない子どもたちは実際よりもかわいらしく見えるよ」息子は写真を手にとって眺めた。「と言うか、実際はこんなにかわいいんだよな。こっちが気づかないだけなんだ、きっと」
 息子の言葉に、男は少し慌て気味に頭の回路をさっきの話題に戻した。そしておちょこをテーブルの上に静かに置いて言った。
「写真に写っとるものは、そのもののありのままの姿なんだろうな。それに比べて、実物は、ほら、どうしても主観的に見てしまうだろ。だからエゴの色眼鏡を使ってしまう。それに、何をされるか分からんという不安とかもあるだろう。だから、余計な感情が入りすぎてしまうんだろうな」男はそう言って眼鏡をかけ直した。「もっとも、本当に嫌な奴は、写真に写っていようが何していようが、嫌なもんだろうがね」
 そう言った後で笑いがこみあげてきた。笑いながら、意外なことを言ったものだと自分自身に感心した。生まれてこの方そんなこと考えたことすらなかったのに。自分の中のどこにそんな言葉があったのかまるでわからない。でも今この口から出た言葉は不思議な説得力をもっていた。
「確かに」
 息子はそう言って口の中で酒臭そうな欠伸をしながら、写真を袋に入れてリュックの中にしまった。その後野球の話題や旅行の話題やらを肴にもう少し飲んだ後、息子は二階に上がって寝た。 

 男は改装したばかりの湯舟に浸かりながら、先に行った自分の言葉を反芻していた。
 写真はありのままの姿を映す。それに引き換え、実物はエゴの色眼鏡で見てしまう。だから余計な感情が入りすぎてしまう。
 そうして男は、長年自分が良くは思っていなかった人々を一人一人確かめるように思い起こした。すると、不思議なことに、その人たちは皆、良い顔をしていた。
 それからしばしの間、男は一人で自分の言葉に酔いしれた。そして考えた。これまでの自分は物事の限られた部分しか見てこなかったということを。そしてそこに固執するあまり大事な部分を見落としていたということを。
 でもそれは仕方のないことでもある。公務員時代には今の考えはきっと浮かんではこない。社会との強い関わりをもたなくなった今だからこそそう思えるのだと。
 ならばあの写真は、息子が子どもたちと会うことがなくなれば、息子にとって今よりももっともっと美しくなるだろう、そんなことを考えた。

*     

 翌日の夕方、男はいつものように犬の散歩に出かけた。すると向こうからいかにも血統の良さそうなレトリバーがしっぽを振って近寄ってきた。男は、愛犬が捨て犬であるがゆえ思わず遠慮して進路を変えようとしたが、犬の奴がどうしても言うことを聞かない。結局二匹とも楽しそうにじゃれ合った。
 男は犬たちの後ろに立っていたレトリバーの飼い主に軽く会釈をした後でふと思った。
「今のも俺の色眼鏡かな」
それから少し歩いた後、空を見上げると雲行きがあやしくなってきたのを感じた。歩く速度を上げたが、自分の家の明かりが見えたところでついに雨がぱらつき始めた。眼鏡に付いた雨滴も気にかけず、男はまだ帰りたがらない犬を引っ張りながら、小走りに家に向かった。
 男は家に着いてすぐ眼鏡を外し、ハンカチで丁寧に雨滴を拭き取った。眼鏡はいつもより忠実に光を通しているように見えた。



作品名:眼鏡 作家名:昼江氾水