王の光
1.後ろの席の女の子
まばゆい光に目が悲鳴をあげ、ジルヴェスター=クリューガーは夢から引き戻された。ついさっきまで見ていたはずである夢の内容は、もう思い出せない。おそらく大した内容ではなかったのだろう。今はただ、窓から入ってくる日差しが眩しくて仕方ない。
枕元に置いている目覚まし時計を見ると、時刻は七時を少し過ぎた頃だった。いつもより少し早いが、もう完全に目が覚めたため、二度寝しようとも思わない。七時半にセットしていたアラームを解除し、彼はベッドから起き上がると部屋を出た。
洗面所で顔を洗い、寝癖を確認する。いつもに比べると、少ないように感じられた。ぐっすりと熟睡していたのだろうか。目覚めがいいのも納得だ。
「あら、早いのね」洗面所に入ってきた彼の母親であるビアンカが驚いた様子を見せた。「おはようジル」
「おはよう。シリアルまだある?」
「確か、まだ残っていたわ」
「ありがと」
ジルは急いで寝癖を整えて、洗面所を後にした。朝一からビアンカと話をするのはあまり好きではない。どうせ最後には、勉強しろなどの結論に行き着くのだ。
リビングでは既に父親であるオイゲンが食事を始めていた。口を動かしながら新聞を眺めている。その右手には、食べかけのパンがあった。ジルの好きなものだった。
「おはよう」オイゲンはジルに気づいていないようだったので、ジルから先に声をかけた。
「ん、ああ、おはよう」
「何か進展ある?」全くこちらを見ない父に対する苛立ちを隠しながら、ジルは尋ねた。進展というのは、数か月前に始まった戦争のことだ。
「バルト海近辺の地域で戦闘があったみたいだな。ロイナ連邦軍とチェスが戦ったらしい」
「チェスが出たの!? 戦果は!?」
チェスという単語に、ジルは思わず身を乗り出した。チェスというのはエースパイロットが集う、我らがEUF――ヨーロッパ連合軍――の部隊名だ。戦争が始まってわずか数か月の間に多くの戦果をあげ、何度もニュースなどのメディアに取り上げられている。高校生であるジルらにとっては憧れの存在であった。
「敵のザクールを六機撃破したそうだ。うち半数の三機が女王によるものだ」
「女王って、あのリア=ローランだよね。ザクールを四機って、すげえなあ」
ジルが感嘆の声をあげたとき、ちょうどテレビからもチェスという単語が聞こえてきた。顔を向けると、先ほど聞いた戦闘に関するニュースのようだった。父から聞いた、新聞に掲載されているものとほぼ同じだったが、その後に映像が流された。どうやら、戦闘後に撮られたチェスのようだ。当然、軍の機密事項である人型兵器ザクールの映像はない。映っているのは隊員たちだけだ。
真っ白と真っ黒、どちらかのパイロットスーツに身を包んだ英雄たちが、とても戦闘後とは思えないほど和やかな表情を浮かべていた。こちらの損害はなかったといっていたため、そのためだろう。
白いパイロットスーツの背中に剣が描かれた男が映った。ヨーロッパ人なら誰もが知っているエースパイロット、アントニオ=レアルだ。彼と話しているのは、対照的に黒いパイロットスーツを着た人物だ。わずかな胸の膨らみから、女性であることがわかる。彼女だけヘルメットを被ったままだが、それはいつものことで、そこからこぼれるようにして背中に流れている金髪が、黒い軍服に映えている。その姿こそがまさに女王、リア=ローランだ。
「いつまで見ているつもりだ。早くしないと遅刻するぞ」
新聞を畳みながら父が言った。たしかに、いつもより早く起きたといっても、その後をゆっくりと過ごしていてはいつもと同じになってしまう。ジルは慌ててシリアルに牛乳をかけ、口の中にかきこんだ。
《それでは、本日の運勢です》テレビから陽気な声が聞こえた。もうチェスの話題は終了したようだ。《赤・白・青・黒・黄色のボックスから一つを選んでください》
毎朝恒例のものだ。ジルは心の中で白と呟いた。占いとやらを信じているものではないが、この手のものは順位形式になっている。一位を当てられたら嬉しいといった程度のものだった。
《本日の一位は……白色です! 新しい出会いが待っている日。ラッキーパーソンは、「後ろの席の女の子」になっています》
久しぶりに一位を当てられた。目覚めといい、今日は幸先が良い。それにしても、ラッキーパーソンが限定的なのが気になった。いつもなら、父親だとか親友だとか、そういったもののはずである。
――後ろの席……ねえ
教室でジルの後ろに座っているのは、女子生徒だった。九月に新学期が始まり、既に二か月弱が経っているが、その姿を見たのは数えるほどしかない。病弱のようで、よく風邪などで休んでいるのだ。昨日も来ていなかった。
――来ていない奴がラッキーって言われてもな
思わず苦笑しながら、ジルは食事を済ませ、学校へ行く支度にとりかかった。もとより、ラッキーパーソン――日によってはラッキープレイスであったりラッキーアイテム――を気にしたことはない。今日に限って意識する必要もないだろう。
制服に着替え終わって家を出たときには、いつも家を出ている時刻と大して変わらなかった。それでも、登校前の数分にかなりの価値があるのは事実だ。いつもより気持ちに余裕を持ちながら登校することができた。
教室に入っても、まだ生徒はほとんど来ていなかった。机にいくつかカバンが置いてあるが、その持ち主は教室内にはいない。トイレにでも行っているのだろうか。教室内に残っているのは、たった一人だった。
「おはよう」その生徒が口を開いた。
「お、おはよう。久しぶり……だね」
その生徒が座っている席の前にある机にカバンを置き、ジルも挨拶を返す。彼女――ソフィー=エッフェルと会話をするのは、これがまだ三回目ほどだった。ただでさえそういった相手との会話は緊張するというのにも関わらず、今日の占いでラッキーパーソンとされた人物と迎えた突然の出会いだ。どうしていいか分からず、その後はお互いに沈黙のまま時間が流れた。
何か話さなければと思うも、普段から会わない彼女に何を話せばいいのかがまるで分からない。彼女の長い金髪を見ながらジルは考えた。
しかし先に口を開いたのは、またしてもソフィーの方だった。
「クリューガー君は、世界史って得意?」
「へ?」
「世界史。私、あの授業あまり受けてないから、分からないとこ多くて」
「あ、ああ、そうだね。えーと、苦手ではないけど得意でもない……かな。近代史、特にアメリカ合衆国の崩壊からなら得意なんだけどさ、今授業でやってるところはあまり……」
「そう……」少し寂しそうな表情を浮かべて、ソフィーは続けた。「学校は、好き? この街――ロストクは好き?」
「好きだよ。両方とも」急に話が変わったことに戸惑いながらもジルは答える。「エッフェルさんは、嫌いなの?」
「ううん。好きよ。この学校も、この街も。私はフランス出身だけど、ドイツがここまで過ごしやすいとは思ってなかった」
「そう……。それなら良かった」
ソフィーが言っていることは本心だろうと思われた。しかしそれにも関わらず、その表情は相変わらず冴えない。とても、「好きだ」という会話をしている人の話し方とは思えなかった。