認定猶予 -Moratoriums-
また少女は一人きりになった。
一人きりになってから、夜が来て朝がやってきた。此処に来てからというもの、こんなに長い時間を一人で過ごすのは初めてだった。
暗くなってから悠花は同じ階にある自分の部屋――と言ってもベッドと据え置きの家具しかない殺風景な部屋だけれど――に戻って、あまり眠くもない体を横にして時間を経過させていた。もしかしたら、少しくらいは眠りに落ちたかもしれない。けれど、夢すら見ないこの夜では、針の進む速さなど一定ではなかった。
物音がした気がした。
目を開ければ、いつの間にか薄い遮光カーテンの外が白く綻んでいた。夜気ですっかり冷えた床の上に両足を下すと、ひたり、心のほうへ冷たいものがせり上がってきた。
予感がした。物音はもしかしたら幻聴かもしれないけれど。室内用のスリッパが見当たらなかったので、素足のままで廊下へ出た。
辿り着いた磨硝子の先に気配を感じた。ドアノブを廻せば、昨夜かけたはずの鍵が開いていた。
起き抜けの、薄い紗幕のかかった記憶のまま、ゆっくりと鉄製のドアを押し開ける。ブラインドから真っ白な光が注いで、室内に埃の影を浮かび上がらせている。
新聞やファイルに埋もれた部屋の姿は普段通り。少女が昨夜電気を消した瞬間と変化は見られない。積み上がったバインダー、古新聞、スクラップノート。それらが床から事務机までを支配していて。
少女の机の上には蓋の閉じた端末。この部屋の責任者の机にも変化は見られない。けれど唯一。
単色の朝日が室内を照らして埃の影をつける。応接セットのテーブル。それを囲む二人掛けの皮のソファ。その上に、身体を投げ出している誰かの姿。
否、それが誰かなんて、悠花には顔を見る前から分かっていた。からからと回る換気扇、それに重なる嘆息の声。スーツ姿の背格好、疲労に染まった白い顔。
「白城さん?」
それは呼びかけではなくて、驚きによって発せられた独り言だった。自分の声が想像よりも強く響いて、悠花はとっさに口を噤んだ。
彼女の心配を余所に、白城は良く眠っているようだった。
横向きに、窮屈そうに身体を折って目を閉じる白城の姿。その眉間に僅かに皺が寄っていても見間違う筈はないけれど、思わず傍に近寄って確かめたくなる程には久々の再会だった。
おそらく部屋に戻るのが億劫で、仮眠のつもりで此処に横になったのだろう。今は身動ぎの呻き声を交えながら、自分の上着を掛布団代わりにして顔を埋めている。
悠花は、まだ夢か幻想か分からないまま、ぼんやりと彼の様子を眺めていた。ソファの背の側から彼の顔を遠目に覗き下して、やがて何かに気付いたように来た道を戻った。
再び事務室に現れた少女が抱えてきたのは、一枚の毛布。
その瞳から彼女自身の意思は読み取れない。白城を覆い隠すようにふわりと毛布を掛けて、ただいつものように真剣で。口を引き結んだまま、ソファのすぐ傍に立ち止まる。今度は正面から、ソファの肘掛部分に頭を預ける白城の顔をじっと見詰める。
息も殺したまま。
白城の、ひとえに身嗜みに気を使っているとは言い切れない前髪がその顔を半分隠している。それがとてももどかしかった。だから悠花はまるで導かれるように、真っ白な指を彼の顔に差し延ばした。頬にかかった髪を掻き避けるために。
指先がかすかに顔の表皮に触れる。その些細な違和感に白城の眉が反応する。
けれどそれは一瞬のこと。慌てて引っ込めようとした指先は、ふわり、彼の手に捕えられてしまう。
驚いて声を上げようとして、息を呑む。見れば白城は目を閉じたままで、ただ寝ぼけているのだとすぐに知れた。
一瞬だけ強く引かれたと思った掌は、間もなく力なくソファの上に落ちてしまった。それでも尚、悠花の腕を取ったまま。
振り払うのは簡単だった。逃れようと思えば容易くそう出来るはずだ。それでも悠花はそれがどうしても出来ずに、どうしても抗いたくなくて、そのまま手の届く場所、ソファの足元に座り込む。
裸足のままで床は冷たい。それが心地良かった。毛布の間から伸ばされた掌。前髪で隠れたままの横顔。それだけは空いた左手で掬い避ける。眉間に寄っていたはずの皺は消えて、気だるげな唸りも聞こえなくなっていた。
白城が枕代わりにしている肘置きにこっそり背中を預ける。振り向いて覗き込めば、すぐそこに彼の顔がある距離に。
時折吹き付ける風の音。それ以外はどんな音も聞こえない。代わりに覚える、よく馴染んだ煙草の匂い。
いつしか指先は離れてしまっていたけれど。
それでも悠花はソファに凭れたまま、次第に明るくなっていく空の輝きを見ていた。
「おかえりなさい」
作品名:認定猶予 -Moratoriums- 作家名:篠宮あさと