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スリーアローズ
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津黄 〈 Tsu-o 〉

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「彼は純朴で温かい男でした。こんな集落で育った男ですから」とナカイさんは言って、いくぶんか力の抜けた視線を海に落とした。「彼は同級生と言いながら、実は僕よりも1つ年上だったんです。高校1年生の時に長いこと学校に来られなくなって、留年したんですよ」
 僕は自分の仕掛けを海に投入しながら、ナカイさんの話に耳を傾けた。
「心がくたびれ果てていたんです。思いやりのある人間に限って、心労が多い。皮肉なさがですよ。ところで、タカハシさんはいじめを受けられたことはあります?」
 唐突な質問だった。
「いじめ、ですか?」と僕は言った。あるようなないような。もしあったとしてもそれは同級生同士のただのふざけ合いのようなものばかりだ。
 そんなことを考えているとナカイさんは話を続けた。
「我々の年齢になっていじめの話をするのもちょっと妙な感じがしますが、その僕の友達は、ずっといじめにあってました。それも実に陰湿な」とナカイさんは苦笑いを浮かべながら言い、ペットボトルに入ったお茶を再びすすった。
「彼の家は昔の網元だったんです。今はもう家族が絶えてしまいこの土地にはいませんが、当時はかなりのものだったらしいですよ。この津黄だけでなく、近くの魚河岸のほとんどを掌握していたようです。昔は今とは違って魚がよく獲れて、よく売れましたから」
 僕はだまって話を聞いた。
「彼にはお兄さんがいたんだけど、重度の知的障害で、幼い頃から養護施設に入っていたんです。だから彼は親からの期待を一心に背負ったんです。特に父親は厳しくて。
 彼は優秀な男でした。成績もトップクラスでしたし、話をしても知性を感じるところがありました。
 彼にはやりたい仕事もありました。漫画家です。彼は手塚治虫にずいぶん深く傾倒していました。まじめで思慮深い人間でしたから、いったん夢中になると、それはもう一途にのめりこんでいったわけです。それで高校卒業後すぐにでもその道に進みたいと独学で漫画を描いていました。
 何度か彼のイラストを見せてもらいましたが、予想していたよりもかなり本格的で、中途半端な思いで取り組んでいるわけではないことが一目で分かるようなものばかりでした。とにかく朝から晩まで漫画を描きまくっていました。
 しかし厳格な父親はそれを許しませんでした。彼には大学に入って経営学を学んでほしかったようです。いずれは商売を継いでほしかったのでしょう。高校入試を間近に控えた頃から父親は特につらく当たるようになりました。汚い言葉を浴びせ、時には酔って暴力をふるいました。結局彼は志望していた高校ではなく、大学入試向けの進学校に入学しました。
 1日でも早く漫画の勉強をしたかった彼は、入試一辺倒の勉強に興味がもてなくなりました。無口になり、そのうち絶望感さえ抱くようになります。それで、高校1年生の時はほとんど学校に行きませんでした」
 ナカイさんはそこまで話したところで、空になったペットボトルのフタをきちんと閉めてクーラーボックスに放り込んだ。
「大学に入ってからでも漫画は描けるんですけどね」と僕は言った。
 ナカイさんはちらと僕の方を見た。
「たしか手塚治虫だってそうですよ。彼は元々医者か何かだったんですよね」と僕は言ってピクリともしない自分の竿先に目をやった。
「おっしゃるとおりです」とナカイさんは少し語気を強めて言った。「彼の周りに一人でもそういうアドバイスをする大人がいれば少しは違ったのだと思います。こんな集落で育ったわけですから、彼には限られた情報しかなかったことは否定できません。
 要は自尊心の問題なんですね。たとえそれがどんなことであれ、周りの人からことごとく否定され続けると、自尊心は傷つき、自分の殻に閉じこもるようになるんじゃないでしょうか。ましてや彼はまじめな男でした。周りの人間の言葉も気にして生きざるを得なかった。だからますます自分を追い詰めたんでしょう」
 ナカイさんは再び海面に視線を落とした。
「私が初めて彼と出会ったとき、何と無口な奴だろうと思いました。人は誰しも、存在感というものがあるでしょ。それが大きい人間もいれば小さい人間もいるわけですが、そういう存在感を醸すのが人間というものじゃありませんか。
 ところが、彼にはそれがまるで感じられないんです。いわば透明人間みたいなものです。彼は休み時間になると机から離れずに本を読むか、廊下の窓際に意味もなく立ちすくむかのどちらかだったんですが、誰からも気づかれることはありませんでいた。ひどいときには誰かが彼にぶつかっても、あたかも廊下の柱にでもぶつかったかのようにいかにも無頓着に通り過ぎてゆくのです。
 彼は欠席がちだったのですが、その欠席を気にするものなどいません。留年して1年生をもう一度やっているのだという噂はどこからともなく聞いていました。知らず知らずのうちに彼は避けられていたのかもしれません。
 はじめ私は、周りの人間が無慈悲なんだと思いました。しかし、どうやらそれだけではない。つまりは存在感の問題なんだと考えるようになったのです。だれも彼に気づかないのです。
 はじめて彼と話をしたのは夏休み前の避難訓練の時でした。私たちの高校は危機管理だけは当時にしてきちんとしていて、実際に発煙筒を使って訓練していました。ハンカチを口に当てて煙の充満した廊下を逃げるとき、彼とぶつかったんです。あまりの衝撃に彼はひっくり返ってしまいました。後で私は謝ったんですが、彼は温厚な表情で笑って許してくれました。
 それから私たちはたまに話すようになりました。一緒に弁当を食うこともありました。網元の息子らしく、弁当には必ず魚が入っていました。しかし彼は必ずと言っていいほど、弁当を残しました。
『魚はあまり好きじゃなくてね。というより、生き物を殺して食うことに、僕の場合どうも抵抗があるんだ』と彼は言いました。
 彼は私には比較的多くを話してくれたように思います。夢のこと、家のこと、障害を抱えたお兄さんのこと、母親はお兄さんにつきっきりで、ちょっとしたノイローゼになっている、とか。しかしそれらを特に苦にしているようには見えませんでした。いかにも彼のペースで淡々と、家族や自分の人生を傍観者的に眺めているようでした。
 今思えば私はほんとうに愚かでした。彼は苦しみを表に出すような人間ではなかった。しかしそういう人間こそじつは心にたまった苦しみに押しつぶされそうになっているものなのです。私はそれに気づきませんでした。ですから彼がいじめられていることに気づいたのももう少し後のことだったのです。
 もっとも、彼をからかっていた人たちはそれがいじめだという認識はなかったかもしれません。彼に浴びせる言葉がどれほど彼にとって強いダメージを与えるのか、想像もしていなかったはずです。
 私は思うのです。小さい頃、誰かにひどいことを言われた時に『あの人には悪気がないから許してあげなさい』と大人から言われることがありましたが、じつは悪気がないということほど厄介で恐ろしいことはないんじゃないかって。