不毛なダイヤモンド
その三、彼は博愛主義者である。
相沢くんと目が合ったのは、時間に直せば2秒足らずだった。よく目をそらさずにいられたものだと自分に感心してしまう。真夏の太陽と同じくらいの威力を、その二つの目は発しているのだから。
その光を帯びた目が、ふいに私から離れた。
窓の外からの声へと引き寄せられたのだ。
「・・・ほら、あれ、真島と木下さん。新しいカップルのお帰りだ」
「へぇ、手なんてつないじゃって。ラブラブじゃん」
「あの二人を見てると、相思相愛ほど美しいものはないって思い知らされるよ」
相沢くんの横顔は、捨て猫をいたわる少年に似た清らかさを滲ませて、ひたすらきれいだった。
まただ。また、破壊衝動のようなとてつもない流れが自分のなかを巡っていくのを感じた。
私は、相沢くんがそうしているように、「微笑ましい恋人たちに幸せを分けてもらっています」という純度100パーセントの日だまりのような笑みを浮かべられない。
気に入らない。壊してやりたい。私の手で。
「こういうの、略奪愛って言うんだよね」
とうとう漏れた、私の黒々と醜い衝動。
相沢くんは少しだけ長いまばたきをしただけで、それ以外のリアクションをしなかった。優しい笑みは、まだその顔に留まり続けている。
「こういうのって?」
「真島と菜月が付き合ってること」
「略奪って、奪うって意味でしょ?彼らが何か悪いことをした覚えはないけど」
「失恋って、恋を失うって書くでしょ?真島は相沢くんの恋を奪ったって言っても、おかしくないじゃない」
相沢くんは、今度は長いまばたきをした。まばたきと言うよりは、目を閉じてそこから何も悟られまいとしているように見えた。
「気付いてたんだね、香崎さん。これでもけっこう、ちゃんと隠していたつもりだったんだけどな」
「わかるよ、ずっと見てたでしょ」
そのときの相沢くんのまなざしの温かさに私がどれだけ胸をかき乱され、視線の先に私がいないことを悔しく思ったことか。この様子じゃ、相沢くんはまるで気付いちゃいない。
「真島が木下さんに告白したときは、まぁ、ぼくも二人の気持ちには気付いてたからね。来るべきときが来たんだなと、すんなり頷けたよ。好きだけど、仕方ない。恋愛は、一人じゃ出来ない。ぼくの一方通行じゃ成り立たないことに、もっと早くから納得するべきだったんだろうけど」
それがなかなか難しくてね、と相沢くんは笑った。
目には見えないという「優しさ」という名前の何かが、相沢くんのすべてから放たれているように見えて仕方ない。
その長いまつ毛がまばたきで揺れる瞬間や、握りこもうとした手を無理に止めようとしたその動きや、窓から差し込む光に薄められた茶色の瞳の穏やかさのすべてから、相沢くんがあの二人に向ける非の打ちどころのない優しさを感じて、私の破壊衝動はどんどん加速していく。
「ねぇ、なんでそんな、すんなり受け入れちゃうの?好きなんでしょ?苦しくないの?悔しくないの?どうして温かく見守ろうって結論になっちゃうの?」
「苦しくないわけではなかったし、悔しくないわけでもなかったよ。でも、不可抗力だ。真島が告白して、木下さんはそれを受け入れた。ぼくに入りこむ余地はないし、そんな気もない。誰も喜んだりしないからね。ぼく自身を含めても」
「不可抗力だったら、自分の気持ちもなかったことにしちゃうの?わかんないよ、理解出来ない」
私のこの止めようのない衝動が、果たして何を壊そうとしているのか、それすらもわからずに、私は苛立ちを隠しもせずにひたすら相沢くんの優しさそのものを否定した。
真島が菜月に告白したとき、私のなかに湧きあがってきたのが怒りだったのも、考えてみればおかしな話だ。
あの二人がくっついてくれた方が、相沢くんを好きな私としては好都合なはずなのに。
許せなかったのだ、単純に。
菜月に告白した真島に、OKした菜月に、結局その2人を止められなかった自分に、腹が立って仕方ない。
相沢くんに優しさを強いるすべてを壊せたら、相沢くんは少しだけでも楽になれるだろうか?
「なんで、なかったことにしちゃうの」
こぼれ出た言葉が、私の衝動のすべてだった。
たくさんの矛盾が、正しいはけ口を見つけ出せずに怒りにだけ変換されていくなかで、このやるせなさだけがくっきりと形を持って出口を目指している。
「相沢くん、好きだったんでしょ?なのに2人が仲良くしてるの聖母みたいな顔で受け入れちゃって、ダメだったから仕方ないって、自分の気持ちを守ってくれるのは自分しかいないんだよ。本人まで見捨てて、それでいいはずないじゃん」
私の一方的なまでの批難にも、相沢くんの穏やかな表情は少しも揺るがなかった。
でも、さっきよりずっと悲しそうに見えた。捨て犬を家に連れて帰れないことがわかっている少年のように。
「ぼく、この世で一番大切なのは愛だと思うんだ」
愛、という単語の登場には、ちょっと怯んだ。やっぱり相沢くんが使うとまぶしい。
「それはさ、好きな人をこっちに振り向かせるものじゃなくて、もっとどうしようもなく無力なものだと思うんだ。持つぶんには、ホントに、何の役にも立ちゃしない」
ふふっと漏れたその笑みには「自嘲」という単語がはっきり見えて、相沢くんが少しも「綺麗に取り繕おう」と思っていないことが窺えた。
「誰か他の人が持つことで初めて意味があるんだ。真夜中に航海するとき、明かりが必要なのは舟の上にじゃない。岸で灯台として道しるべになるか、空の上で星として導いてやるかしないといけないみたいにさ」
「だから相沢くんは愛を持つ側になろうってこと?」
「そう」
「不毛だよ」
「そうじゃないと愛とは言えない」
「ばっかみたい」
小さく小さく、私はつぶやいた。
「そんなことしても、真島は気付いたりしないのにさ」
その四、彼は同性愛者である。