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ドビュッシーの恋人 no.4

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トロカデロのメリーゴーランド



たとえば、彼女のやわらかそうな髪の毛だとか、本に視線を落とす長い睫だとか。
ふと自分に向けられる碧の瞳や、優しい笑顔。鈴のように透き通る声。
そういったものを、ミランは一日のうちに何度も思い出してしまう。
まるで恋に焦がれ、溺れてしまった美しい魚のように。

シャンゼリゼの出来事を機に、二人は『エスメラルダ』でも言葉を交わすようになった。「ウエイターと、その店の常連客」という間柄から、少しずつ二人の関係は動き出す。ミランにとって、それは穏やかで微熱を帯びた日々だった。
ある日、彼は思いきってクリスティーヌをディナーに誘った。

「ドビュッシーばかり聞いてしまうの」

パレ・ロワイヤル庭園にあるレストランのテラスで地中海料理を口に運ぶクリスティーヌは、さっきからうっとりとした様子でピアノについて話している。

「小さい頃からドビュッシーの曲に惹かれていて。ピアノを始めたのも、それがきっかけよ」
「確かに君のドビュッシーは独特だと感じたよ。厚みがあるというか、一つ一つの音に気持ちがこもっていた」

相当弾き込んでいるのだと思う。世界中のピアニストが『月の光』を弾いているけれど、ミランはあそこまで独創的な演奏を聞いたことがない。遠い記憶を思い起こすような、泣きたくなるような、懐古的なメロディー。

彼女はミランより一つ年下の、音楽院に通う学生だった。毎朝『エスメラルダ』で朝食をとったあと、学校で一日中ピアノを弾いているという。最近はウィーンで音楽を学ぶために留学試験を受けているが、なかなか通らないのだ、と、もどかしそうに彼女は言った。
こんなクリスティーヌの表情を見るのは意外だった。思いがけない話ばかりが出てくるから、ミランの興味はますます彼女に惹きつけられる。

「それで、ミランは? 画家を目指しているんでしょう?」

白ワインを一口飲んで、クリスティーヌが楽しそうに訊く。
お互い芸術を愛する面で共通していることを知って、彼女もきっと嬉しいのだろう。

「僕も小さい頃から絵を描くのが好きで、画家を目指すのも自然なことだったよ」
「どんな絵を描くの?」
「基本的にはなんでも。でも一番好きなのは肖像画なんだ」

人を描くのがミランは好きだ。美術学生だった頃は、路上で通行人の似顔絵を描いたりしていた。蚤の市やモンマルトルの広場でもよく描いたが、中でも一番楽しかったのは、エッフェル塔の足元にあるトロカデロのメリーゴーランドの前で、世界中の人の似顔絵を描いたことだ。観光客が最も集まる場所で、色々な人と交流しながら絵を描くのは、最高に刺激的だった。

「僕の描いた似顔絵を喜んでくれる人がいて、すごく嬉しかったんだ」

こんなちっぽけな自分にも、誰かを喜ばせる小さな力がある。一生懸命創り上げたものが、他人の心の隅っこで温かく残ってくれる。
そのことが、アーティストを志すミランにとっては、なによりも幸せなことだと思う。

「トロカデロのメリーゴーランドの前なんて、素敵よね」
「毎日がきらきらしてたよ。でもすぐに警察に見つかって辞めてしまったんだ」

ミランの似顔絵は思いのほか評判を呼び、老若男女、人種問わず、様々な絵を無償で描いていた。だが、そのうち学院の友人が「お金をとっても良い絵だと思う」などと話を持ちかけてきたから、ミランはすっかり調子にのってしまい、似顔絵でひと稼ぎするようになったのだ。無許可でそんなことをしていれば、警察に目をつけられるのも時間の問題だった。

「今思えば、当時はまだお金をもらう程の画力はなかった。僕の絵を買ってくれた人たちに申し訳なく思うときもあるよ」

もう数年前の話だが。ミランはあの頃を思い出して苦笑いする。絵のことに関しては少々熱心すぎる学生だったけれど、今となっては良い思い出だ。
ミランの話を一通り聞いていたクリスティーヌは、「そうかしら」と一言だけ口にした。
そして、「あなたに描いてもらった人は、きっと嬉しかったと思うわ」とも。