信長、蘇生せよ、この悲観の中に
振り返ってみれば、信長は、五月十五日から十七日までの三日間、徳川家康を安土城に饗食で招待していた。
そして、その世話役を光秀に指示していた。
しかし五月十六日に、信長は光秀に急遽中国出陣を命じた。
中国毛利家を水攻めしている秀吉の援護をするためだ。
光秀は、そのための準備にと近江坂本城に五月十七日に入り、その後五月二六日に亀山城に入った。
ここに十七日から二六日までの十日間の空白がある。
明智光秀の行動は、その間全くの不明。
光秀は一体どこで何をしていたのだろうか。
それは多分、深い不安の中の正親町(おうぎまち)天皇、つまり京の朝廷/公家と密会し、信長の天下布武がいよいよ本気であると確認し合っていたのではないだろうか。
きっと信長暗殺の計画の最後の擦り合わせをしていたのだろう。
作品名:信長、蘇生せよ、この悲観の中に 作家名:鮎風 遊