「哀の川」 第十二章 好子との別れ
第十二章 好子との別れ
年が明けて1992年になった。二月の旧正月にあわせて香港から功一郎はいったん帰国した。日本は寒い、そう感じた。デパートでコートを買い、重いカバンを持ちながら好子の店に行った。電話をしてあったから、店の常連達も一緒になって温かく迎えてくれた。
「お帰りなさい!功一郎さん、皆さんもありがとうございます、お迎えいただきまして・・・」そう礼を述べた。
「久しぶりにまた来れて嬉しいです。皆さんと楽しい時間を過ごさせてください」頭を下げてそう挨拶した。荷物を二階へ上げて、着替えを済まして功一郎は降りてきた。帰ってくることが解っていたから、片づけをして一緒に暮らせるように準備をしてあった。待っていてくれたんだ、と素直に嬉しく思った。
店で常連客といろんな話に花が咲いた。久しぶりに聞くみんなの歌も懐かしく、またうまくなっている人が居て感心もさせられた。歌が苦手な功一郎だったが、この日は懐メロの「くちなしの花♪」を唄った。優しい目をして聞いている好子に少し変化が訪れた。この頃下腹部が刺すように痛むのだ。せっかく功一郎が帰ってきたと言うのに、我慢しなければと・・・堪えていた。客の一人が「ママ!また痛むの?そろそろ医者に行かないといけないよ、何があるか解んないからね」
と声をかけた。功一郎は近くへ寄ってきて、
「好子、今言われたことは本当なのか?何故言わなかったんだ!」
「まだ最近なのよ、今年に入ってから・・・明日病院へ行って来るから心配しないで・・・」そう言いながら、もう立っていられないほどの痛みが襲ってきた。
救急車が店の前に停まった。功一郎が担架の傍に着いて一緒に乗り込んだ。店は常連さんがシャッターを下ろしてくれていた。夜の街中をサイレンのけたたましい音と、好子!と大きな声をかけている功一郎の声がいつまでも響き渡っていた。
功一郎は待合室で担当医に呼ばれる時間を今か今かと待っていた。深夜の病棟は静まり返って時折廊下を歩く看護士の足音が聞こえるのと、この時期交通事故が多いのか、救急車のサイレン音が聞こえる。治療室の扉が開き、メガネをかけた若い救急外来医師が出てきた。
「ご主人でいらっしゃいますか?」
「いえ、でも結婚の約束はしています」
「そうでしたか、お身内の方にしかお話できませんので、今ご本人に確認してまいります。少しお待ち下さい・・・」
意味深な言い方で、再び治療室に入り、すぐにこちらへ戻ってきて話し始めた。
「今了解を得ました。大橋様のご病状は詳しく調べてみないと正確な判断は出来ませんが、CTの結果腹部に腫瘍が見られます。少し出血していますので緊急に手術が必要かと思われます」
「先生!それは・・・ガンということなんでしょうか?」
「そうですね、残念ですが・・・かなり進行していると思われます」
「助かるのでしょうか?好子は?」
「今は解りませんが、転移がなければ手術と抗がん剤治療である程度の期待は出来ると思われます。すべては詳しい検査の結果でお知らせしたいと今はそれしか言えませんね」
功一郎はショックを隠しきれなかった。治療室への面会を求めて少しならと許可を貰い好子と対面した。
「功一郎さん・・・ごめんなさいね。こんなことになっていたなんて・・・私はもうダメ・・・あなたは他にいい人見つけて、幸せになって」
「好子!何を弱気なことを、先生は手術すれば大丈夫と仰っていたよ。それに、俺には君しかいないんだから、気をしっかりと持って治療に専念しよう」
「ありがとう・・・あなたと逢えて幸せだったわ・・・最後に望みが叶ったんですもの。お店はしばらく閉店してあなたの住まいにしてて」
「うん、解った、そうするよ」
看護士に促されて、面会は短い時間で終了した。帰り道のタクシーで功一郎は初めて涙を見せた。どんなときも泣くことなどなかった自分が、悲しさに耐えれなくなったのだ。
時代が、年齢が、そして功一郎の本当の優しさがそうさせたのであろう。
朝早く一本の電話がかかってきた。裕子への電話だった。朝の支度を切り上げて、電話口に出た。
「はい、もしもし・・・功一郎さん!どうなさったの?」
「早くからごめんなさいね。君に知らせておくべきかと思って、電話したんだ」
「そうなの、何か急ぎのことでもあるの?」
「うん、好子がね、昨日救急車で病院へ担ぎ込まれて。ちょうど香港から帰ってきたその日の夜にね。病院の先生が・・・その・・・あまり良くないって言われるんだよ。時間があったら、少し知恵を貸してくれないか」
「ええ!好子が・・・うん、わかった。どこへ行けばいいの?」
「好子の店でいいよ。杏子さんが知っているから教えてもらって」
「じゃあ、杏子さんと一緒に行くから。いいでしょ?」
「ああ、構わないよ、杏子さんだったら。すぐ来れるの?」
「すぐ行くわよ、待ってて」
杏子は裕子のお腹を気遣いながら、自分が運転して行くと言った。
「お邪魔します。裕子です。開けて下さい!」
「ありがとう、寒いだろう、中に入って・・・悪いね重たい身体になっているのに、さあ二階へ上がってくれよ」
「それじゃあ、裕子さん先に入ってて。わたしは玄関を閉めてくるから」
「すみません、じゃあ上がらせて頂きます」
裕子は狭い階段を上がり、功一郎が住んでいる部屋に入った。小さいながらさっぱりと片付いていて、好印象を感じた。好子が片づけをしていたのだろう。コーヒーのいい香りがしてきて、待っている時間も長くは感じなかった。テーブルに出されたカップに口をつけながら、功一郎は話し始めた。
「医師はね検査をしないと解らないって言ったんだけど、どうやらお腹にガンが出来ていて、かなり大きいって、出血もしているからすぐに手術をすると言ったんだよ」
「ビックリしたわ、本当なの?功一郎さん・・・」
「ああ、ウソ言ってもしかたないだろう。それでね、二三日のうちに手術を始めるから、入院に必要なものを今日中に病院へ持ってきて欲しいといわれたんだよ。何もって行くのか解らなくて、電話したんだよ」
「そうよね、男の人には解らない事でしょうから。杏子さんと二人で家の中見させてもらって、用意するわ。しばらく待っていて」
手術後に必要な衣類、洗面道具、箸やコップまで色々と揃えた。浴衣の寝巻きがないから、途中のデパートで買って行くことにした。
好子は4人部屋の窓側に寝かされていた。裕子たちは荷物を持って病室へと入り、好子と面会した。
「好子!裕子よ、杏子さんも一緒、どうしたの?ビックリしたのよ」
「裕子・・・功一郎さんが知らせたのね、ありがとう、わたしはもうダメ・・・自分で解るの。あなたには辛い思いをさせたけど、本当にゴメンね」
「好子、そんなことはいいって!今は元気になることだけを考えてよ。功一郎さんは優しい人よ。あなたのこと一番心配してくれているじゃない」
「わたしには勿体無いわ。功一郎さんは杏子さんと幸せになって欲しい・・・杏子さん聞いてくれた?」
「聞こえていますよ、そんな事言うものじゃないですよ。わたしは功一郎さんには相応しくないってはっきりしているんですから・・・好子さんが、元気になって支えになってあげて下さい。諦めるなんていけませんよ!」
年が明けて1992年になった。二月の旧正月にあわせて香港から功一郎はいったん帰国した。日本は寒い、そう感じた。デパートでコートを買い、重いカバンを持ちながら好子の店に行った。電話をしてあったから、店の常連達も一緒になって温かく迎えてくれた。
「お帰りなさい!功一郎さん、皆さんもありがとうございます、お迎えいただきまして・・・」そう礼を述べた。
「久しぶりにまた来れて嬉しいです。皆さんと楽しい時間を過ごさせてください」頭を下げてそう挨拶した。荷物を二階へ上げて、着替えを済まして功一郎は降りてきた。帰ってくることが解っていたから、片づけをして一緒に暮らせるように準備をしてあった。待っていてくれたんだ、と素直に嬉しく思った。
店で常連客といろんな話に花が咲いた。久しぶりに聞くみんなの歌も懐かしく、またうまくなっている人が居て感心もさせられた。歌が苦手な功一郎だったが、この日は懐メロの「くちなしの花♪」を唄った。優しい目をして聞いている好子に少し変化が訪れた。この頃下腹部が刺すように痛むのだ。せっかく功一郎が帰ってきたと言うのに、我慢しなければと・・・堪えていた。客の一人が「ママ!また痛むの?そろそろ医者に行かないといけないよ、何があるか解んないからね」
と声をかけた。功一郎は近くへ寄ってきて、
「好子、今言われたことは本当なのか?何故言わなかったんだ!」
「まだ最近なのよ、今年に入ってから・・・明日病院へ行って来るから心配しないで・・・」そう言いながら、もう立っていられないほどの痛みが襲ってきた。
救急車が店の前に停まった。功一郎が担架の傍に着いて一緒に乗り込んだ。店は常連さんがシャッターを下ろしてくれていた。夜の街中をサイレンのけたたましい音と、好子!と大きな声をかけている功一郎の声がいつまでも響き渡っていた。
功一郎は待合室で担当医に呼ばれる時間を今か今かと待っていた。深夜の病棟は静まり返って時折廊下を歩く看護士の足音が聞こえるのと、この時期交通事故が多いのか、救急車のサイレン音が聞こえる。治療室の扉が開き、メガネをかけた若い救急外来医師が出てきた。
「ご主人でいらっしゃいますか?」
「いえ、でも結婚の約束はしています」
「そうでしたか、お身内の方にしかお話できませんので、今ご本人に確認してまいります。少しお待ち下さい・・・」
意味深な言い方で、再び治療室に入り、すぐにこちらへ戻ってきて話し始めた。
「今了解を得ました。大橋様のご病状は詳しく調べてみないと正確な判断は出来ませんが、CTの結果腹部に腫瘍が見られます。少し出血していますので緊急に手術が必要かと思われます」
「先生!それは・・・ガンということなんでしょうか?」
「そうですね、残念ですが・・・かなり進行していると思われます」
「助かるのでしょうか?好子は?」
「今は解りませんが、転移がなければ手術と抗がん剤治療である程度の期待は出来ると思われます。すべては詳しい検査の結果でお知らせしたいと今はそれしか言えませんね」
功一郎はショックを隠しきれなかった。治療室への面会を求めて少しならと許可を貰い好子と対面した。
「功一郎さん・・・ごめんなさいね。こんなことになっていたなんて・・・私はもうダメ・・・あなたは他にいい人見つけて、幸せになって」
「好子!何を弱気なことを、先生は手術すれば大丈夫と仰っていたよ。それに、俺には君しかいないんだから、気をしっかりと持って治療に専念しよう」
「ありがとう・・・あなたと逢えて幸せだったわ・・・最後に望みが叶ったんですもの。お店はしばらく閉店してあなたの住まいにしてて」
「うん、解った、そうするよ」
看護士に促されて、面会は短い時間で終了した。帰り道のタクシーで功一郎は初めて涙を見せた。どんなときも泣くことなどなかった自分が、悲しさに耐えれなくなったのだ。
時代が、年齢が、そして功一郎の本当の優しさがそうさせたのであろう。
朝早く一本の電話がかかってきた。裕子への電話だった。朝の支度を切り上げて、電話口に出た。
「はい、もしもし・・・功一郎さん!どうなさったの?」
「早くからごめんなさいね。君に知らせておくべきかと思って、電話したんだ」
「そうなの、何か急ぎのことでもあるの?」
「うん、好子がね、昨日救急車で病院へ担ぎ込まれて。ちょうど香港から帰ってきたその日の夜にね。病院の先生が・・・その・・・あまり良くないって言われるんだよ。時間があったら、少し知恵を貸してくれないか」
「ええ!好子が・・・うん、わかった。どこへ行けばいいの?」
「好子の店でいいよ。杏子さんが知っているから教えてもらって」
「じゃあ、杏子さんと一緒に行くから。いいでしょ?」
「ああ、構わないよ、杏子さんだったら。すぐ来れるの?」
「すぐ行くわよ、待ってて」
杏子は裕子のお腹を気遣いながら、自分が運転して行くと言った。
「お邪魔します。裕子です。開けて下さい!」
「ありがとう、寒いだろう、中に入って・・・悪いね重たい身体になっているのに、さあ二階へ上がってくれよ」
「それじゃあ、裕子さん先に入ってて。わたしは玄関を閉めてくるから」
「すみません、じゃあ上がらせて頂きます」
裕子は狭い階段を上がり、功一郎が住んでいる部屋に入った。小さいながらさっぱりと片付いていて、好印象を感じた。好子が片づけをしていたのだろう。コーヒーのいい香りがしてきて、待っている時間も長くは感じなかった。テーブルに出されたカップに口をつけながら、功一郎は話し始めた。
「医師はね検査をしないと解らないって言ったんだけど、どうやらお腹にガンが出来ていて、かなり大きいって、出血もしているからすぐに手術をすると言ったんだよ」
「ビックリしたわ、本当なの?功一郎さん・・・」
「ああ、ウソ言ってもしかたないだろう。それでね、二三日のうちに手術を始めるから、入院に必要なものを今日中に病院へ持ってきて欲しいといわれたんだよ。何もって行くのか解らなくて、電話したんだよ」
「そうよね、男の人には解らない事でしょうから。杏子さんと二人で家の中見させてもらって、用意するわ。しばらく待っていて」
手術後に必要な衣類、洗面道具、箸やコップまで色々と揃えた。浴衣の寝巻きがないから、途中のデパートで買って行くことにした。
好子は4人部屋の窓側に寝かされていた。裕子たちは荷物を持って病室へと入り、好子と面会した。
「好子!裕子よ、杏子さんも一緒、どうしたの?ビックリしたのよ」
「裕子・・・功一郎さんが知らせたのね、ありがとう、わたしはもうダメ・・・自分で解るの。あなたには辛い思いをさせたけど、本当にゴメンね」
「好子、そんなことはいいって!今は元気になることだけを考えてよ。功一郎さんは優しい人よ。あなたのこと一番心配してくれているじゃない」
「わたしには勿体無いわ。功一郎さんは杏子さんと幸せになって欲しい・・・杏子さん聞いてくれた?」
「聞こえていますよ、そんな事言うものじゃないですよ。わたしは功一郎さんには相応しくないってはっきりしているんですから・・・好子さんが、元気になって支えになってあげて下さい。諦めるなんていけませんよ!」
作品名:「哀の川」 第十二章 好子との別れ 作家名:てっしゅう