猿蟹合戦
臼が空から降ってきた。
その日晴天の下、突如として一点の曇りが現れた。それが臼の尻である。いの一番にそれを見つけた猿は、なす術もなくその下敷きになってしまった。
そしてその奇妙な光景を見ていたものどもがいる。蜂、栗、そして蟹の三者であった。
猿は暴れることもせず、力なく尻を天に向けている。気絶をしているのかもしれない。よもや死んでいるということはないだろう。
それでも蟹は言葉をなくし、ただ茫然と立ち尽くすしかなかった。
臼が空から降ってくる。その怪異の起こりは、今から十ばかり遡った日のことに始まる。おそらくはそうなのだろうと、蟹は真っ赤な記憶へと、意識をうずめた。
その日の夕暮れ、蟹は自身の母親の帰りを今か今かと待っていた。蟹という生物の足音は甚だ静かであり、気がつけば傍にいるような気配しかない。そのため蟹は家の戸をずっと凝視している破目になった。出入りは必ずそこを通らねばならぬからだ。ただその行為は母親へ示す愛嬌ではなく、夕餉を期待してのことである。蟹は母をあまり快く思っていなかった。蟹は扉を睨みつつハサミを口にやって、ひもじさにひたすら耐えた。
それから半刻ほどで母親は帰った。乾いた音を立てて戸を開く。夕焼けにあてられ、赤い殻は殊更に赤く見えた。そして蟹は母の笑顔を真っ先に認めたため、自身の顔も同様に綻んだ。収穫は上々のようだ、と。しかしその期待は簡単に裏切られることになる。母親は土間に上がると、柿の種をひとつぶころりと差しだした。そして、見ろ、と言う。どこから、また何度見てもそれは柿の種だった。蟹は呆気にとられていると、これは何か分かるか、と訊かれたため見たままを答えると、母親は満足そうに笑った。それが癪に障り、憮然として今日の飯を訊くと、ないと言われた。蟹が口を開いてどなり声を上げるより先に、母がそれを制した。少し待てと。その代りの柿の種だ、と。
聞けば、夕餉はちゃんとしたものがあったらしい。それを持って帰る途中、猿にあったそうだ。猿は大変上機嫌のようで、その理由を問うと、良いものを拾ったと答えた。それが柿の種だった。これを今から庭に埋めれて育てれば、ずっと美味い柿を食べていける。猿はそう言ったらしい。羨ましくそれを見ていると、だったら交換しようじゃないかと提案があり、それを母親は飲んだというのだ。良い交換をしたという母親の顔が恨めしかった。
詭弁である。いや詐欺だ。蟹は怒ったが、母親はそれを相手にしなかった。むしろむきになって今から庭に埋めるという。桃栗三年柿八年。実を結ぶころにはとっくに蟹の寿命は尽きている。蟹は空腹のあまり、それ以上のやり取りは投げてしまった。呆れかえったというのも理由としては正しい。母親のその能天気さが、どうも蟹には許容できないものだった。
その晩、蟹は絶えずなる腹の虫を抑え込みながら寝た。柿の種を埋める際の、母親が上機嫌で歌った可笑しな歌が妙に耳に残った。
だから、次の日の朝、庭先に立派な柿の木が生えているのを見たときは、肝を抜かれる思いがした。あろうことか、その木はすでにまだ青いながらその果実さえ実らせているのだ。そしてそのうちのひとつが、蟹の見ている前で熟れた。母親は小躍りさえしている。蟹は唖然と、起こったことの理解に努めるのがやっとであった。
問題はすぐに露呈した。柿の実が落ちてこないのである。正午を目前に控え、実った果実はあらかた赤く熟した。が、それっきり柿の成長、代謝は止まってしまうようであった。これには能天気な母親も閉口し、力なく柿の実を見守るしかできなかった。蟹も空腹が限界に達し、無茶をする気力はない。ここで言う無茶とは、蟹が木に登ることを指す。
そこへ揚々と通りかかったものがいた。猿である。蟹の母親の態度から察するに、蟹が腹を満たせない原因を作った張本人らしかった。猿は手放しにその木と、それを育てた母親を褒めた。まさか、という言葉が出てきたので、種を渡した猿ですらこの事態を予想していなかったようである。が、依然として母親は気付かない。人のよさそうな笑みを浮かべて目下の困りごとを詐欺師に向かって述べていた。その詐欺師は、だったら、とひとつ提案を口にした。自分が木に登って実をとろう、と。
無邪気に喜ぶ母親に比べ、蟹は厭な予感しかしなかった。それを黙っていたのは、ふたりの会話に加わりたくなかったからである。猿は軽々と木に登ると実をひとつもぎ取り、それを食べた。まずは味見だといった。もし不味いものならば、それを食べさせるのは心苦しいと言うのである。が、猿は美味そうに食べた。蟹と母親はその表情に期待を膨らませたが、猿は次々と、実をもいでは食べるという動作を繰り返すばかりで、一向に蟹たちに実を寄こす気配がない。蟹はそれをなんとなくでも予期していたが、母親はしていなかった。だからその分、怒りの沸点が低く、そのくせ頂点は高かった。母親は、さっさと寄こせと怒鳴った。傍で聞いている蟹の気が塞いでしまうような、そんな汚い言葉で罵倒した。猿は始め聞き流していたのだが、あまりのしつこさに、やはり血が昇ってしまった。木の天辺まで登り、そこに実っていた、まだ青く固いままの実を五、六個、矢継ぎ早に投げて寄こした。蟹は何もなかったが、母親がそのうちのみっつに当たり、昏倒してしまった。猿はそれを見届けるとさっさと木から下りて、どこかへと行ってしまった。
母親が亡くなったのはその晩のことである。蟹は食べるものがないため仕方なく、母親を殺した青く渋い柿を食べた。
風のうわさというのは吹くというより湧き出るようで、蟹は誰にも話していないというのに、ことを知っているものが多く、そして弔いにきた。その中に血の気の多いものが三者いた。臼、蜂、栗である。それらは一様に蟹の許へと座り、そして説いた。悲しかろう悔しかろう、と。蟹自身が置いていかれるほどの力説ぶりで、蟹は大いに戸惑った。悲しいのは事実だ。そして悔しいのも事実だろう。しかしその思いは、否定をすれば嘘になるという、その程度である。蟹は自身の胸中をそのように了解していた。が、しかし傍から見ればまた違うように見えるのかもしれない。蟹がそのように忘我しているうち、三者は義憤を起こすに至った。猿討つべしと、それは強固として語られた。
翌日、蟹の母親の葬儀を執り行ったあと、手紙を猿の家に投げ入れた。文面は、命をひとつ奪っておいてその詫びにもこないつもりか、という意味のもので、これにはさすがに堪えたらしい。昼過ぎに猿は蟹の家へとやってきた。出迎えは当然蟹が行った。他の者は姿を隠している。
その日晴天の下、突如として一点の曇りが現れた。それが臼の尻である。いの一番にそれを見つけた猿は、なす術もなくその下敷きになってしまった。
そしてその奇妙な光景を見ていたものどもがいる。蜂、栗、そして蟹の三者であった。
猿は暴れることもせず、力なく尻を天に向けている。気絶をしているのかもしれない。よもや死んでいるということはないだろう。
それでも蟹は言葉をなくし、ただ茫然と立ち尽くすしかなかった。
臼が空から降ってくる。その怪異の起こりは、今から十ばかり遡った日のことに始まる。おそらくはそうなのだろうと、蟹は真っ赤な記憶へと、意識をうずめた。
その日の夕暮れ、蟹は自身の母親の帰りを今か今かと待っていた。蟹という生物の足音は甚だ静かであり、気がつけば傍にいるような気配しかない。そのため蟹は家の戸をずっと凝視している破目になった。出入りは必ずそこを通らねばならぬからだ。ただその行為は母親へ示す愛嬌ではなく、夕餉を期待してのことである。蟹は母をあまり快く思っていなかった。蟹は扉を睨みつつハサミを口にやって、ひもじさにひたすら耐えた。
それから半刻ほどで母親は帰った。乾いた音を立てて戸を開く。夕焼けにあてられ、赤い殻は殊更に赤く見えた。そして蟹は母の笑顔を真っ先に認めたため、自身の顔も同様に綻んだ。収穫は上々のようだ、と。しかしその期待は簡単に裏切られることになる。母親は土間に上がると、柿の種をひとつぶころりと差しだした。そして、見ろ、と言う。どこから、また何度見てもそれは柿の種だった。蟹は呆気にとられていると、これは何か分かるか、と訊かれたため見たままを答えると、母親は満足そうに笑った。それが癪に障り、憮然として今日の飯を訊くと、ないと言われた。蟹が口を開いてどなり声を上げるより先に、母がそれを制した。少し待てと。その代りの柿の種だ、と。
聞けば、夕餉はちゃんとしたものがあったらしい。それを持って帰る途中、猿にあったそうだ。猿は大変上機嫌のようで、その理由を問うと、良いものを拾ったと答えた。それが柿の種だった。これを今から庭に埋めれて育てれば、ずっと美味い柿を食べていける。猿はそう言ったらしい。羨ましくそれを見ていると、だったら交換しようじゃないかと提案があり、それを母親は飲んだというのだ。良い交換をしたという母親の顔が恨めしかった。
詭弁である。いや詐欺だ。蟹は怒ったが、母親はそれを相手にしなかった。むしろむきになって今から庭に埋めるという。桃栗三年柿八年。実を結ぶころにはとっくに蟹の寿命は尽きている。蟹は空腹のあまり、それ以上のやり取りは投げてしまった。呆れかえったというのも理由としては正しい。母親のその能天気さが、どうも蟹には許容できないものだった。
その晩、蟹は絶えずなる腹の虫を抑え込みながら寝た。柿の種を埋める際の、母親が上機嫌で歌った可笑しな歌が妙に耳に残った。
だから、次の日の朝、庭先に立派な柿の木が生えているのを見たときは、肝を抜かれる思いがした。あろうことか、その木はすでにまだ青いながらその果実さえ実らせているのだ。そしてそのうちのひとつが、蟹の見ている前で熟れた。母親は小躍りさえしている。蟹は唖然と、起こったことの理解に努めるのがやっとであった。
問題はすぐに露呈した。柿の実が落ちてこないのである。正午を目前に控え、実った果実はあらかた赤く熟した。が、それっきり柿の成長、代謝は止まってしまうようであった。これには能天気な母親も閉口し、力なく柿の実を見守るしかできなかった。蟹も空腹が限界に達し、無茶をする気力はない。ここで言う無茶とは、蟹が木に登ることを指す。
そこへ揚々と通りかかったものがいた。猿である。蟹の母親の態度から察するに、蟹が腹を満たせない原因を作った張本人らしかった。猿は手放しにその木と、それを育てた母親を褒めた。まさか、という言葉が出てきたので、種を渡した猿ですらこの事態を予想していなかったようである。が、依然として母親は気付かない。人のよさそうな笑みを浮かべて目下の困りごとを詐欺師に向かって述べていた。その詐欺師は、だったら、とひとつ提案を口にした。自分が木に登って実をとろう、と。
無邪気に喜ぶ母親に比べ、蟹は厭な予感しかしなかった。それを黙っていたのは、ふたりの会話に加わりたくなかったからである。猿は軽々と木に登ると実をひとつもぎ取り、それを食べた。まずは味見だといった。もし不味いものならば、それを食べさせるのは心苦しいと言うのである。が、猿は美味そうに食べた。蟹と母親はその表情に期待を膨らませたが、猿は次々と、実をもいでは食べるという動作を繰り返すばかりで、一向に蟹たちに実を寄こす気配がない。蟹はそれをなんとなくでも予期していたが、母親はしていなかった。だからその分、怒りの沸点が低く、そのくせ頂点は高かった。母親は、さっさと寄こせと怒鳴った。傍で聞いている蟹の気が塞いでしまうような、そんな汚い言葉で罵倒した。猿は始め聞き流していたのだが、あまりのしつこさに、やはり血が昇ってしまった。木の天辺まで登り、そこに実っていた、まだ青く固いままの実を五、六個、矢継ぎ早に投げて寄こした。蟹は何もなかったが、母親がそのうちのみっつに当たり、昏倒してしまった。猿はそれを見届けるとさっさと木から下りて、どこかへと行ってしまった。
母親が亡くなったのはその晩のことである。蟹は食べるものがないため仕方なく、母親を殺した青く渋い柿を食べた。
風のうわさというのは吹くというより湧き出るようで、蟹は誰にも話していないというのに、ことを知っているものが多く、そして弔いにきた。その中に血の気の多いものが三者いた。臼、蜂、栗である。それらは一様に蟹の許へと座り、そして説いた。悲しかろう悔しかろう、と。蟹自身が置いていかれるほどの力説ぶりで、蟹は大いに戸惑った。悲しいのは事実だ。そして悔しいのも事実だろう。しかしその思いは、否定をすれば嘘になるという、その程度である。蟹は自身の胸中をそのように了解していた。が、しかし傍から見ればまた違うように見えるのかもしれない。蟹がそのように忘我しているうち、三者は義憤を起こすに至った。猿討つべしと、それは強固として語られた。
翌日、蟹の母親の葬儀を執り行ったあと、手紙を猿の家に投げ入れた。文面は、命をひとつ奪っておいてその詫びにもこないつもりか、という意味のもので、これにはさすがに堪えたらしい。昼過ぎに猿は蟹の家へとやってきた。出迎えは当然蟹が行った。他の者は姿を隠している。