狐
始
春の終わり。
桜は花弁を落とし、葉が萌える。
風がそよぎ、空は碧く、鳥の囀りも心なしか明るく聞こえる。
暖かで穏やかな、ありふれた晩春の一日。
そんな陽気に思わず大あくびをこぼす若人が一人。
若人の名は深山長助。色白でひょろりと背が高く、無造作に伸ばされた栗色の髪は、また無造作に一つに束ねられている。顔形は、まあまあ美丈夫の部類に滑り込めるであろう。
彼は五人兄妹の四番目、自由気ままな身分であった。十七の夏の時分、長助は文士として立身することを誓い、大見栄を切って東京板橋は蓮沼の実家を出、猿楽町にて下宿生活を送った。
細々と同人誌などで食いつなぐもとうとう生活に窮し、十九の春には実家に戻った。それが三月ほど前の話である。現在は、長兄が継いだ家業の八百屋を手伝うことで家賃の代わりとし、長兄家族の居候の様な形で暮らしている。
とうとう二十歳になろうかというのに未だにぶらぶらとしている末弟に、兄もため息の数が増えようというもの。
しかし、元来楽天的な性格の長助はそんな兄の憂慮をよそに、今日も気ままに筆を執るのだ。
「道明寺はいかがですか、美味しいですよ」
美しい鳥の声にも負けない、可憐な声が高い空に舞う。
売り子の娘は、そのまんまる顔に満面の笑みを浮かべていた。
「おいしそうですね、五ついただけますか」
――先生へのいい手土産になった。先生は甘いものに目がないからな。
"先生"とは、長助が猿楽町で下宿していたころから師事している文学の師匠で、今でも月に二度か三度、執筆した作品を見せに伺うことを常としている。
スネ齧りの貧乏文士故に普段は手ぶらで訪問するのだが、今日は少しだけ懐が温かかった。少女向けの雑誌に、掌編を一編、使ってもらえたのだ。
むろん、それも"先生"の助言が大いに力を添えてくれたからに違いない。しかし、ささやかながら恩返しが出来るようになったことに、長助は静かな喜びを感じていた。
「ありがとうございます、またどうぞ」
「どうもありがとう」
長助が柔らかく微笑むと、娘はぱっと頬をあからめた。美男子というものはつくづく得なものである。
春のうららかな日差しを受けながらのんびりと歩を進め、稲荷の社の前まで来た。ここを右に折れて更に左に折れたところが、先生の家だ。
――稲荷の社、か。
普段は気にもかけない、小さな社だ。
それなのに今日はなぜか少し、心にひっかかった。呼ばれた、という感覚なのだろうか。
不思議な気分を春の陽気の所為にして、長助は社へと足を向けた。