人生初修羅場
うちの母親は昔からとてもリベラルだった。
小学生に上がるか上がらないかの頃の俺が、どうやら異性よりも同性が好きらしいと、恐らくは俺が自覚するよりも先に気づいたときも、気持ち悪がることも、とがめる事もなく、可愛がってくれた。俺はなんの引け目も感じることなく、あの母親の息子として自分で言うのもなんだがそれなりに真っ直ぐ育ったと思う。孫の顔が見れなくてもいい、清澄がいい相手と出会って仲良く幸せに暮らしてくれればそれでいいと言ってくれた。二十台も半ばを過ぎて、同級生たちの結婚や出産の報を聞くようになっても、気が変わることなくそう言ってくれる。マザコンと言われようと、あの母親の子どもでよかったと、俺は胸を張って言える。
が。一本筋の通った母親の言う「いい相手」の条件も、俺が小学生の頃からまるでぶれることなく変わっていない。
高給取りでなくてもいいから、アップダウンの少ない職の人を選べ。
いい歳こいて身の丈に合わない夢を追い求めるような奴はただの愚か者だ。
借金をするような男はどんな理由であっても駄目だ。遊ぶ金のためにするのはどうしようもないし、起業みたいな大きなことをしようとして金を借りるのも危険だし、借金の保証人になるようなだまされやすい人と一緒になってもいけない。
ギャンブルなんて論外だ。
一緒になったからって仕事をやめて家に入れって言うような相手はやめておくように。別れたときの生活もあるし、相手がいつ病気とかで働けなくなるかもわからない。
俺がゲイであっても大切な息子だ、ということを言う時は、だいたい「いつかいい相手と幸せになって」あたりから脱線し、このような話に突入するのが常だった。つまりは、これを小学校低学年の頃から何度も何度も言われ続けたわけである。その頃の俺は、保証人という単語どころか、ギャンブルや借金という言葉の意味さえろくにわかっていなかったというのに。
うちの母親は、昔から石橋を鉄骨で補強してから渡るような人だった。
何事においても堅実で慎重で、未だに信号は必ず右と左を確認するし、パソコンのセキュリティは一番良いとされるソフトを入れて、しかも毎日こまめにチェックしている。幼稚園児にして将来の夢に「公務員」と書いた件は親戚の間で未だに語り草だ。結局夢は叶わず民間企業に就職したのだが、その会社はバブル期にたいして儲かりもしなかったかわりに、バブルが崩壊してもほとんど業績が変わらなかったほど堅実な経営をしている。父親は公立中学校の教師だ。母は、幼稚園の時分の具体的な夢こそ叶えられなかったものの、その根本にある根本的な願いは叶えた。つまりは、とにかく堅実な人生を送りたいという願いだ。母ほど極端に堅実さを志向しているわけではないにしろ、この母が選んだ人なわけだから、父も堅実な生き方を好むタイプの男だ。
そんな両親に、堅実こそ美徳だ、幸せに生きていく術だと言われ続けて育った俺がどうなったか。高校を卒業した後、県内の国立大学の経済学部に進学し、県庁所在地にある中堅企業に就職した。成績は中学までは学年上位一桁には入っていたものの、一応進学校である高校ではだいたい真ん中よりちょっと上ぐらい。趣味は映画鑑賞とゲームと散歩、それに株と為替の予想を立てることだけれど、買おうとは微塵も思わない。失敗した時のリスクを避けたいからだ。つまりは、母が望むとおりの、特別目立つほど何かができるわけでもなくとも、堅実で安定した、そして家族や友達、教師らにも恵まれて、多分幸せだといっていい人生を生きてきた。
恋人の好みも、見事に母親の教え通りになった。
大学の学部違いの同級生で、就職と同時に一緒に暮らすようになった俺の恋人は、現在高校の英語の教師をしている。奴の趣味は英会話と映画鑑賞だ。落ち着いた物腰の、優しくて穏やかでいい奴だが、一般的に見れば取り立てて目立つところもなく、平凡極まりない、堅実な人生を歩んでいる男だ。両親とも何度か会っているが、三回ほど会わせたところで母親にもこの人なら大丈夫だと太鼓判を押された。
その男、荘一が借りてきた映画を今並んで一緒に見ている。いかにもザ・ハリウッド感全開の、莫大な予算を惜しみなく注ぎ込んだ冒険アクションだ。あらゆる意味で派手な展開、次々に主人公たちに襲い掛かる多種多様な罠。ハラハラドキドキするというよりもむしろ妙に笑えてきた。荘一が俺を怪訝そうな顔で見る。
「今、笑うところだっけ」
「いや、そうじゃないんだけど、実際にこんなに次々波乱万丈なことがあったら、逆に笑えてきちゃうんじゃないかと思って」
「確かに」
そう言って、一瞬考えるような顔をしてから、荘一はくすりと笑った。
「特にはんちゃんはそうかもな。お前が二十四年生きてくる中で起きた波乱万丈なんて、この映画の山場一回分ぐらいじゃないか?」
はんちゃん、は大学時代の渾名で、特に本名とは関係がなく、「石橋をハンマーで叩いてそれでも渡らない」に由来する。鉄骨で補強して渡るだけ、母のほうがまだマシなのだろう。
荘一が本気で言ったのか冗談だったのか、俺には判断しかねた。実際、そんなものかもしれなかったし、それ以下かもしれない。とにかく、手堅く、極力トラブルに巻き込まれないように。そうやって生きてきたのだから。親以外とは喧嘩すらしたことがない。その結果がどうなるか、予想がつかないからだ。
遺跡の探検になんか行こうとも思わない。多分宇宙生物とも戦えない。それどころか、たかがエロい動画を見たいときぐらいにだって、ほんのわずかでも一般人が観てはいけない何かが映りこんでいてCIAや内閣調査室かなにかに追跡されたりあまつさえこっそりと社会の闇の中に葬り去られたりしたら嫌だから裏ビデオを見ようとは思いもしなかったし、閲覧履歴や個人情報が流出したら怖いから多少高くついてもいいから安全そうなウェブサイトを選んで見ていたぐらいなのだ。大学時代の風俗マニアの友達が、次々に怪しげな店を発掘しては店のサービス内容そのものとは次元の違う武勇伝を作ってくるのを聞いて、なんでたかがセックスのためにそこまでの危険を冒す必要があるのだろうと思ったものだ。それから、むしろ奴はそのスリルを楽しんでいるのではないだろうかと考え直した。奴に俺がゲイであることは話していなかったが、俺が奴の誘いを断ってもなんら疑問を持たれることはなかった。奴は奴で俺の性格を知っていたから、そんな怪しげなところについてくるとも思っていなかったのだろう。たとえ俺がヘテロセクシャルで、その上物凄い勢いで性欲を持て余していたとしても、絶対に断っていたに違いない。かといってナンパも怖いから、きっとバイトでお金を貯めて、一番堅そうなソープにでも通っていたんじゃないかと思う。「ちょっと今日面白そうな風俗行ってくるわ」と言った翌日から友人が一週間ぐらい姿をくらませるたびに、俺はそんなことを考えていた。
その友人も、別の裏ビデオや怪しい動画サイトが大好きな友達も、別に取り立ててハードボイルドな事態に巻き込まれるようなこともなく、いまのところ普通に健康に生きている。だから、俺ほど慎重にならなくたって、だいたい問題なく生きていけることぐらいは頭ではわかってる。
小学生に上がるか上がらないかの頃の俺が、どうやら異性よりも同性が好きらしいと、恐らくは俺が自覚するよりも先に気づいたときも、気持ち悪がることも、とがめる事もなく、可愛がってくれた。俺はなんの引け目も感じることなく、あの母親の息子として自分で言うのもなんだがそれなりに真っ直ぐ育ったと思う。孫の顔が見れなくてもいい、清澄がいい相手と出会って仲良く幸せに暮らしてくれればそれでいいと言ってくれた。二十台も半ばを過ぎて、同級生たちの結婚や出産の報を聞くようになっても、気が変わることなくそう言ってくれる。マザコンと言われようと、あの母親の子どもでよかったと、俺は胸を張って言える。
が。一本筋の通った母親の言う「いい相手」の条件も、俺が小学生の頃からまるでぶれることなく変わっていない。
高給取りでなくてもいいから、アップダウンの少ない職の人を選べ。
いい歳こいて身の丈に合わない夢を追い求めるような奴はただの愚か者だ。
借金をするような男はどんな理由であっても駄目だ。遊ぶ金のためにするのはどうしようもないし、起業みたいな大きなことをしようとして金を借りるのも危険だし、借金の保証人になるようなだまされやすい人と一緒になってもいけない。
ギャンブルなんて論外だ。
一緒になったからって仕事をやめて家に入れって言うような相手はやめておくように。別れたときの生活もあるし、相手がいつ病気とかで働けなくなるかもわからない。
俺がゲイであっても大切な息子だ、ということを言う時は、だいたい「いつかいい相手と幸せになって」あたりから脱線し、このような話に突入するのが常だった。つまりは、これを小学校低学年の頃から何度も何度も言われ続けたわけである。その頃の俺は、保証人という単語どころか、ギャンブルや借金という言葉の意味さえろくにわかっていなかったというのに。
うちの母親は、昔から石橋を鉄骨で補強してから渡るような人だった。
何事においても堅実で慎重で、未だに信号は必ず右と左を確認するし、パソコンのセキュリティは一番良いとされるソフトを入れて、しかも毎日こまめにチェックしている。幼稚園児にして将来の夢に「公務員」と書いた件は親戚の間で未だに語り草だ。結局夢は叶わず民間企業に就職したのだが、その会社はバブル期にたいして儲かりもしなかったかわりに、バブルが崩壊してもほとんど業績が変わらなかったほど堅実な経営をしている。父親は公立中学校の教師だ。母は、幼稚園の時分の具体的な夢こそ叶えられなかったものの、その根本にある根本的な願いは叶えた。つまりは、とにかく堅実な人生を送りたいという願いだ。母ほど極端に堅実さを志向しているわけではないにしろ、この母が選んだ人なわけだから、父も堅実な生き方を好むタイプの男だ。
そんな両親に、堅実こそ美徳だ、幸せに生きていく術だと言われ続けて育った俺がどうなったか。高校を卒業した後、県内の国立大学の経済学部に進学し、県庁所在地にある中堅企業に就職した。成績は中学までは学年上位一桁には入っていたものの、一応進学校である高校ではだいたい真ん中よりちょっと上ぐらい。趣味は映画鑑賞とゲームと散歩、それに株と為替の予想を立てることだけれど、買おうとは微塵も思わない。失敗した時のリスクを避けたいからだ。つまりは、母が望むとおりの、特別目立つほど何かができるわけでもなくとも、堅実で安定した、そして家族や友達、教師らにも恵まれて、多分幸せだといっていい人生を生きてきた。
恋人の好みも、見事に母親の教え通りになった。
大学の学部違いの同級生で、就職と同時に一緒に暮らすようになった俺の恋人は、現在高校の英語の教師をしている。奴の趣味は英会話と映画鑑賞だ。落ち着いた物腰の、優しくて穏やかでいい奴だが、一般的に見れば取り立てて目立つところもなく、平凡極まりない、堅実な人生を歩んでいる男だ。両親とも何度か会っているが、三回ほど会わせたところで母親にもこの人なら大丈夫だと太鼓判を押された。
その男、荘一が借りてきた映画を今並んで一緒に見ている。いかにもザ・ハリウッド感全開の、莫大な予算を惜しみなく注ぎ込んだ冒険アクションだ。あらゆる意味で派手な展開、次々に主人公たちに襲い掛かる多種多様な罠。ハラハラドキドキするというよりもむしろ妙に笑えてきた。荘一が俺を怪訝そうな顔で見る。
「今、笑うところだっけ」
「いや、そうじゃないんだけど、実際にこんなに次々波乱万丈なことがあったら、逆に笑えてきちゃうんじゃないかと思って」
「確かに」
そう言って、一瞬考えるような顔をしてから、荘一はくすりと笑った。
「特にはんちゃんはそうかもな。お前が二十四年生きてくる中で起きた波乱万丈なんて、この映画の山場一回分ぐらいじゃないか?」
はんちゃん、は大学時代の渾名で、特に本名とは関係がなく、「石橋をハンマーで叩いてそれでも渡らない」に由来する。鉄骨で補強して渡るだけ、母のほうがまだマシなのだろう。
荘一が本気で言ったのか冗談だったのか、俺には判断しかねた。実際、そんなものかもしれなかったし、それ以下かもしれない。とにかく、手堅く、極力トラブルに巻き込まれないように。そうやって生きてきたのだから。親以外とは喧嘩すらしたことがない。その結果がどうなるか、予想がつかないからだ。
遺跡の探検になんか行こうとも思わない。多分宇宙生物とも戦えない。それどころか、たかがエロい動画を見たいときぐらいにだって、ほんのわずかでも一般人が観てはいけない何かが映りこんでいてCIAや内閣調査室かなにかに追跡されたりあまつさえこっそりと社会の闇の中に葬り去られたりしたら嫌だから裏ビデオを見ようとは思いもしなかったし、閲覧履歴や個人情報が流出したら怖いから多少高くついてもいいから安全そうなウェブサイトを選んで見ていたぐらいなのだ。大学時代の風俗マニアの友達が、次々に怪しげな店を発掘しては店のサービス内容そのものとは次元の違う武勇伝を作ってくるのを聞いて、なんでたかがセックスのためにそこまでの危険を冒す必要があるのだろうと思ったものだ。それから、むしろ奴はそのスリルを楽しんでいるのではないだろうかと考え直した。奴に俺がゲイであることは話していなかったが、俺が奴の誘いを断ってもなんら疑問を持たれることはなかった。奴は奴で俺の性格を知っていたから、そんな怪しげなところについてくるとも思っていなかったのだろう。たとえ俺がヘテロセクシャルで、その上物凄い勢いで性欲を持て余していたとしても、絶対に断っていたに違いない。かといってナンパも怖いから、きっとバイトでお金を貯めて、一番堅そうなソープにでも通っていたんじゃないかと思う。「ちょっと今日面白そうな風俗行ってくるわ」と言った翌日から友人が一週間ぐらい姿をくらませるたびに、俺はそんなことを考えていた。
その友人も、別の裏ビデオや怪しい動画サイトが大好きな友達も、別に取り立ててハードボイルドな事態に巻き込まれるようなこともなく、いまのところ普通に健康に生きている。だから、俺ほど慎重にならなくたって、だいたい問題なく生きていけることぐらいは頭ではわかってる。