道草
距離は遠くない。大股で五歩。男の足が白線を踏み越えそうになったところで僕の手が男の右肩を捉えた。
手前に向かって強く引っ張ると彼の体は簡単にこちら側に傾いた。
「あ」
男がよろめいて小さな声をあげる。と同時に電車が猛スピードで目の前を通過していった。
「…危ないですよ」
肩を掴んでいた手を離して話しかけると、男の視線が僕の顔に向けられた。
「…すいません」
彼は酷く疲れているようだった。顔は青白く返答は弱々しい。身長の割に背中が小さく見えるような気がした。
「死のうとしていたんですか」
単刀直入に質問する。言ってしまってから気を使って回りくどい言葉を選ぶべきだった思い後悔した。
「はい、そうです」
男は小さな声で答えた。
「だめですよ、そんなこと……自殺なんて、だめですよ」
僕はそんな当たり前のことを言った。どんな言葉を彼にかけるのが適切なのか、今の僕にはまったく検討がつかなかったのだ。
「生きていてもいいことなんてそうないんですよ。嫌なことのほうがずっと多いんです。そんな生活はもう限界なんですよ」
「……それでも死ぬなんて」
「君ぐらいの年齢の子にはまだ分からないことかもしれないですね」
「それでも……自殺はいけないです。いけないですよ」
僕は彼をどうにか助けたくて、同じ言葉を繰り返し続けた。それしか出来なかった。
「……君はいい人ですね。ありがとう」
「お礼なんていいです、どうしてそんな考えに至ったのか話だけでも聞かせてもらえませんか」
「聞いたら何か変わるのかな」
「わかりません。わかりませんけど……僕はそうしたいです」
僕は彼の顔を見ることができなかった。沈黙がしばらく続き、男が口を開いた。
「…わかりました。それじゃ聞いてもらおうかな。ただの愚痴になっちゃうけど」
彼はさっきまで座っていたベンチにもう一度腰かけると、男が静かに話し始めた。
「人の人生を評価することにおいて優劣の絶対の基準なんてありませんが、もしあるとしたら僕の人生はその二つの中間にかなり近いものだと思います。出た大学も、会社も、同期と比べての昇進の速さも、住んでいる家も、みんな中の中。普通です。見合いで結婚して、子供を授かって、仕事も一生懸命こなしました」
表情を変えずにゆっくりと話を続ける。
「そんな風に働いて二十年近く経ったある日、テレビでサッカーの中継が行われていて、その時ふと思いました」
男が小さく息を吐いた。
「僕の人生にはどんな価値があるんだろうかと」
「………」
「高校や大学での勉強は、より上の会社に入るため。より上の会社に入ったのはたくさん金を稼ぐため。金を稼ぐのは家族のため。誰にも賞賛されることはありません。今の自分のそんな生活が、自分以外のために使われているこの人生が何の意味もないものに感じられました。定年まであと二十年働かなくてはならない。仕事を辞めて新しいことなんてできない。家族を養わなくてはならない。そんな余裕はない。もう前にも後ろにも進むことができなくなっていました」
男の声は震えていた。
「こんな風にして生きていくことと、今死んでしまうことなんて大して変わらないんじゃないか。そう思ってここに来たんです」
男がもう一度、ため息を吐いた。
「でも君のお陰で死に損ないました」
「はい………」
「責めているわけじゃありません。むしろ感謝しています。こうして黙って僕の話を聞いていてくれたことにも」
「聞いていただけですよ、僕」
「誰にも聞いてもらえないのとは全然違いますから」
「僕みたいな子供が相手でもですか」
「もちろん」
「…まだ、死ぬことを考えているんですか」
男は少し考えてから口を開いた。
「…生きる希望が溢れてきた、というわけではありませんが、今まで諦めていたものを考え直して行動してみようかなという気にはなりました。無意味かどうかはその後にまた考えてみます」
『一番ホームに電車が参ります。線の内側まで下がってお待ちください』
男が立ち上がる。
電車がやって来る。
僕達の前を通過し、停車した。
男は開いたドアに乗り込んでいく。
「これからどうするんですか?」
「一回死んだものだと思って好き勝手にやります。横領とか不倫でもしてみようかな」
彼は笑顔で答えた。
「…頑張ってください」
「あれ、乗らないの?」
「逆方向なので」
「そうか。それじゃあ」
扉が閉じる。緩やかに動き出し、スピードを上げていく。
各駅停車に乗っていった男の姿はすぐに見えなくなってしまった。
男のあの言葉は本心だったのだろうか。もしかしたら、あれはただ僕を納得させるための方便で、今頃別の駅でホームから飛び降りて命を落としているかもしれない。逆にこれからなにをしようかと楽しげに構想を練っているのかもしれない。
確認する術はない。もう会うこともないだろう。だからと言ってもう自分には関係ないと割り切ることもできなかった。