お前となら悪くない
初雪の降り積もったアスファルトの地面を、一人の少年が注意深く踏み締めてゆく。
ぴんと張り詰めた冬の空気は肌を刺すようで、息を吐き出す度に透明な冷気が白く濁っては、すぐにその濁りも消えていった。
休日の朝の町中は奇妙にしんと静まり返っていた。雪を砕く足音が小気味良く色素の薄い空へと吸い込まれていくのがはっきりと分かるほどだ。
少年はグレーのダッフルコートに身を包み、ポケットに両手を忍ばせ、雪化粧をしていつもとは幾分か異なった顔を見せる白銀の道のりを歩いていた。
それでも彼は慣れた足取りで家々の並ぶ通りを抜けると、やがてとある一軒のマンションへと辿りつく。そのまま建物の階段を上り、『鶴見』という表札が取り付けられた扉の前に立ち、親しげにチャイムのボタンを押した。
「はい」
インターホン越しにどこか中性的な響きを孕んだ声が響く。変声期には差し掛かりつつも、まだその途上にあるといったような、思春期の男子学生ならではの独特の声だ。
「よう!」
居宅を訪ねてきた少年は己の名前を名乗りすらせず、からりと気さくな挨拶で答えた。
「あぁ、ちょっと待ってて」
そんな相手も、打ち解けた口調で彼との短いやり取りを済ませると、程なくして玄関の扉の施錠を解く気配がして、奥から華奢な体躯の少年が顔を覗かせる。
「おはよう、駈」
そう言って現れた小柄な少年は無邪気な笑みを浮かべた。客人としてやってきた駈と呼ばれた少年も、「おっはよー、純!」と威勢良く答えると、出し抜けに彼の頬を両手で挟みこむ。
「うわっ、つ、冷たっ!!」
たとえ外套のポケットが冷気から身を守ってくれていたとは言え、これまでの道のりで駈の身体はすっかり冷え切っていた。ずっと温かな室内に居た純と呼ばれた少年が思わず素っ頓狂な声を上げて、ほとんど反射的に駈の両手を払いのけたのも無理はない。
「いきなりなんて事すんのさ……!」
純が声を荒げて立腹するも。
「あはは、純のほっぺたあったけぇー」
対する駈はどこ吹く風と言わんばかりに奔放な様子だった。
とりあえず中に入りな、と純に促されて、駈はスニーカーをさっさと玄関に脱ぎ捨てると、勝手知ったる我が家の如く自然な様子でリビングへと足を運ぶ。駈がこうして朝から純の下を訪ねてくるのは、鶴見家における休日のごくありふれた光景だった。
純の両親は共働きで、特に仕事の関係上、休日は朝からいつも家に一人きりになってしまう。かつてはいくらか年の離れた姉としばしば週末を一緒に過ごしていたのだが、昨年彼女が大学に入ると、それから下宿生活を始めてしまい家から離れてしまったのだった。
ちょうどそれと時期を同じくして、純と駈は中学校に進学し、そこで二人は出会った。すぐお互いに意気投合した彼らは、それこそ飽きもせずにいつも共に時間を過ごし、たくさんの事を話し合って親密な関係を築いていった。くだらない事から、ちょっぴりマジメな内容まで、それこそ何でも話した。
そしてある日、純がぽつりと気弱な言葉を零した。休みの日は家に居るといつも一人になっちゃうから、ちょっと寂しくなる時があるんだ、と。それを聞いた駈は間髪入れずにこう提案してみせた。
「じゃあ、休みの日はおれが純のトコに遊びに行くよ! それならお前も寂しくないし、おれも楽しい! どうだ、いい考えだろ?」
最初、純はその言葉を冗談半分に受け取った。駈にも休日は自分なりの時間があるはずだし、それを独占するだなんて出来るはずがないと思ったのだ。
けれど、いつしかそれは日常へと変わっていった。もちろん、どちらかが外出する予定がある日は予め断りを入れたが、お互いに別段連絡がなければ駈が家までやってくるのが当たり前になった。
例の如く、今日もこうして駈は純の前に姿を現した。
「こたつ、電源入れてあるから早く入ってあったまるといいよ」
純は駈が乱雑に脱ぎ捨てたスニーカーを丁寧に揃えてから、彼の後を追うようにリビングへと入り、そう言った。
「ラッキー! 今日はマジで寒かったんだよ。まさか朝起きたら雪が積もってるなんて思わなかったしさ」
駈はコートを脱いで、彼の為に純が用意してくれていたハンガーにかけてから、たっぷりと温められたこたつ布団の中にお邪魔する。
いつ来てもよく整理整頓の行き届いたリビングだった。それは純の性格によるものか、或いは鶴見家の人間が皆そうなのだろうか。しかし、駈は然して深く気に留めるでもなく、この家の居心地の良さをたっぷりと全身で味わっていた。
耳を澄ますとクラシック・ピアノの演奏が聞こえてきた。この家のリビングは、いつもこうして小さな音量でクラシック音楽がかかっているのだ。音楽を聴くと言えばポップスやロックばかりの駈にとって、最初はそんな“おカタい”音楽が流れている事に少し抵抗を感じたものだったが、慣れてしまえば心地良いBGMになった。
純自身も、特にクラシック音楽に造詣が深いという事もない。部屋にそうした音楽が流れているのが小さい頃からの習慣であるのと、関心があるというよりは単に心地良いからという理由によるのだという。
「あまり作曲家の名前は知らないけど、ラヴェルの曲は好きだな、なんとなく」
いつだったか、そんな事を純が言っていたのを思い出す。今日こうして流れているこの音楽も、ひょっとするとラヴェルの曲なんだろうか。などと考えてはみたものの、クラシックに疎い駈には知る由もない。
それにしてもこたつに入りながらクラシック・ピアノを聴くとは、どこかミスマッチな感じがして、駈は思わず破顔してしまいそうになった。
不意に、ピピピピ、と鳴り響いたやかましい音が、穏やかに流れるピアノの音を掻き消した。キッチンの方からだった。
「そろそろ駈が来る頃だと思って、ホットミルクを準備しておいたんだ」
と純が言った。そして、先の音の正体である電子レンジから2杯のホットミルクを取り出すと、そっとこたつの上に置いた。
「ビスケットもあるからね」
純はそう付け足して、今度はキッチンからずらりとおやつの並べられたお皿まで取り出してくる。
「うひゃあ。至れり尽くせり、ってやつだな」
満足そうに駈が笑顔を浮かべると、その表情に釣られて純も嬉しそうに微笑んだ。
こたつの温もりとピアノの調べに包まれながら、二人きりの穏やかな午前のパーティーが始まった。
ぴんと張り詰めた冬の空気は肌を刺すようで、息を吐き出す度に透明な冷気が白く濁っては、すぐにその濁りも消えていった。
休日の朝の町中は奇妙にしんと静まり返っていた。雪を砕く足音が小気味良く色素の薄い空へと吸い込まれていくのがはっきりと分かるほどだ。
少年はグレーのダッフルコートに身を包み、ポケットに両手を忍ばせ、雪化粧をしていつもとは幾分か異なった顔を見せる白銀の道のりを歩いていた。
それでも彼は慣れた足取りで家々の並ぶ通りを抜けると、やがてとある一軒のマンションへと辿りつく。そのまま建物の階段を上り、『鶴見』という表札が取り付けられた扉の前に立ち、親しげにチャイムのボタンを押した。
「はい」
インターホン越しにどこか中性的な響きを孕んだ声が響く。変声期には差し掛かりつつも、まだその途上にあるといったような、思春期の男子学生ならではの独特の声だ。
「よう!」
居宅を訪ねてきた少年は己の名前を名乗りすらせず、からりと気さくな挨拶で答えた。
「あぁ、ちょっと待ってて」
そんな相手も、打ち解けた口調で彼との短いやり取りを済ませると、程なくして玄関の扉の施錠を解く気配がして、奥から華奢な体躯の少年が顔を覗かせる。
「おはよう、駈」
そう言って現れた小柄な少年は無邪気な笑みを浮かべた。客人としてやってきた駈と呼ばれた少年も、「おっはよー、純!」と威勢良く答えると、出し抜けに彼の頬を両手で挟みこむ。
「うわっ、つ、冷たっ!!」
たとえ外套のポケットが冷気から身を守ってくれていたとは言え、これまでの道のりで駈の身体はすっかり冷え切っていた。ずっと温かな室内に居た純と呼ばれた少年が思わず素っ頓狂な声を上げて、ほとんど反射的に駈の両手を払いのけたのも無理はない。
「いきなりなんて事すんのさ……!」
純が声を荒げて立腹するも。
「あはは、純のほっぺたあったけぇー」
対する駈はどこ吹く風と言わんばかりに奔放な様子だった。
とりあえず中に入りな、と純に促されて、駈はスニーカーをさっさと玄関に脱ぎ捨てると、勝手知ったる我が家の如く自然な様子でリビングへと足を運ぶ。駈がこうして朝から純の下を訪ねてくるのは、鶴見家における休日のごくありふれた光景だった。
純の両親は共働きで、特に仕事の関係上、休日は朝からいつも家に一人きりになってしまう。かつてはいくらか年の離れた姉としばしば週末を一緒に過ごしていたのだが、昨年彼女が大学に入ると、それから下宿生活を始めてしまい家から離れてしまったのだった。
ちょうどそれと時期を同じくして、純と駈は中学校に進学し、そこで二人は出会った。すぐお互いに意気投合した彼らは、それこそ飽きもせずにいつも共に時間を過ごし、たくさんの事を話し合って親密な関係を築いていった。くだらない事から、ちょっぴりマジメな内容まで、それこそ何でも話した。
そしてある日、純がぽつりと気弱な言葉を零した。休みの日は家に居るといつも一人になっちゃうから、ちょっと寂しくなる時があるんだ、と。それを聞いた駈は間髪入れずにこう提案してみせた。
「じゃあ、休みの日はおれが純のトコに遊びに行くよ! それならお前も寂しくないし、おれも楽しい! どうだ、いい考えだろ?」
最初、純はその言葉を冗談半分に受け取った。駈にも休日は自分なりの時間があるはずだし、それを独占するだなんて出来るはずがないと思ったのだ。
けれど、いつしかそれは日常へと変わっていった。もちろん、どちらかが外出する予定がある日は予め断りを入れたが、お互いに別段連絡がなければ駈が家までやってくるのが当たり前になった。
例の如く、今日もこうして駈は純の前に姿を現した。
「こたつ、電源入れてあるから早く入ってあったまるといいよ」
純は駈が乱雑に脱ぎ捨てたスニーカーを丁寧に揃えてから、彼の後を追うようにリビングへと入り、そう言った。
「ラッキー! 今日はマジで寒かったんだよ。まさか朝起きたら雪が積もってるなんて思わなかったしさ」
駈はコートを脱いで、彼の為に純が用意してくれていたハンガーにかけてから、たっぷりと温められたこたつ布団の中にお邪魔する。
いつ来てもよく整理整頓の行き届いたリビングだった。それは純の性格によるものか、或いは鶴見家の人間が皆そうなのだろうか。しかし、駈は然して深く気に留めるでもなく、この家の居心地の良さをたっぷりと全身で味わっていた。
耳を澄ますとクラシック・ピアノの演奏が聞こえてきた。この家のリビングは、いつもこうして小さな音量でクラシック音楽がかかっているのだ。音楽を聴くと言えばポップスやロックばかりの駈にとって、最初はそんな“おカタい”音楽が流れている事に少し抵抗を感じたものだったが、慣れてしまえば心地良いBGMになった。
純自身も、特にクラシック音楽に造詣が深いという事もない。部屋にそうした音楽が流れているのが小さい頃からの習慣であるのと、関心があるというよりは単に心地良いからという理由によるのだという。
「あまり作曲家の名前は知らないけど、ラヴェルの曲は好きだな、なんとなく」
いつだったか、そんな事を純が言っていたのを思い出す。今日こうして流れているこの音楽も、ひょっとするとラヴェルの曲なんだろうか。などと考えてはみたものの、クラシックに疎い駈には知る由もない。
それにしてもこたつに入りながらクラシック・ピアノを聴くとは、どこかミスマッチな感じがして、駈は思わず破顔してしまいそうになった。
不意に、ピピピピ、と鳴り響いたやかましい音が、穏やかに流れるピアノの音を掻き消した。キッチンの方からだった。
「そろそろ駈が来る頃だと思って、ホットミルクを準備しておいたんだ」
と純が言った。そして、先の音の正体である電子レンジから2杯のホットミルクを取り出すと、そっとこたつの上に置いた。
「ビスケットもあるからね」
純はそう付け足して、今度はキッチンからずらりとおやつの並べられたお皿まで取り出してくる。
「うひゃあ。至れり尽くせり、ってやつだな」
満足そうに駈が笑顔を浮かべると、その表情に釣られて純も嬉しそうに微笑んだ。
こたつの温もりとピアノの調べに包まれながら、二人きりの穏やかな午前のパーティーが始まった。