横顔
「私たち、・・・別れよう?」
そう切り出したのは、ちょうど二週間前の家族連れで賑わう公園だった。
彼とは同い年の27歳。3年付き合ってきて、結婚も考えた。
始まりを考えるとなんだか初々しい。
友達の紹介でメールでのやり取りからそれは始まった。会うきっかけとなったのは、1枚のアルバムだ。メディアに露出しないものの、誰もが口ずさんでいたと思う。私が聴きたいと言って、彼が貸してくれることになったのだ。
ただ、距離が遠い。他県同士なのだ。
待ち合わせ場所はふたりの家から中間地点のCDショップにした。中間地点といっても1時間はかかる所だ。文章だけのやり取りだったから顔を知らない。もちろん彼もだ。しかし、その日の服装を伝えていたから案外あっさりと会えた。
穏やかな人。
それが私の第一印象だ。目線は同じ高さくらいの小柄で、黒縁のメガネをかけていた。幼さが残る。その日は映画を見て食事をして、アルバムを借りて別れた。
帰りの車の中で彼がおすすめしていた曲を聴いた。素敵な曲だった。これから始まるんだと、根拠はないけど確信した。
そのあと3回目に会ったときに告白された。
月に2、3回しか会えないから、余計週末が来るのを楽しみにしていた。
待ち合わせ場所は、大体はお互いの住んでいる所にした。片道2時間弱、全然苦にならなかった。地味な生活を送ってきた私は青春を取り戻すかのように、彼といろんな所に旅行に行ったし、季節毎のイベントを楽しんだ。
そんな生活を終わらせたのだけど、終わってみるとなんだかあっけない。3年も一緒に過ごしてきたのが、今では夢を見ていたのかと思えるほど現実味がない。恋愛とはそのくらいのものなのか。
原因は、喧嘩をしたからではない。
そもそも、私たちは喧嘩らしい喧嘩をしたことがなかった。
好きではなくなったのだ。
それだけだ。
その気持ちに気づいたら続けていくことに罪悪感を覚えた。居心地が悪かったわけではないからこのままでもいいと考えたこともある。でもやっぱり無理がくるのだ。ちょっとしたことでいらいらしてしまうことが増えてきた。寛容になれない自分のせいだと思うことにした。そんな積み重ねが、少しずつ少しずつ膨らんできていっぱいになった風船が破裂したのだ。
1人になった私の手帳は空白が多くなった。書き込む予定がなくなったからだ。
週末となると家でのんびり自分だけの時間を過ごしている。たまにはいいものだ。以前より、掃除をするようになった。完全な干物になってはいけない。
家から車で10分。線路の近くにあるセルフのガソリンスタンドを去年からずっと利用している。
そこでキミに会った。きれいな顔立ちの青年だな、25~6歳くらいな。その程度にしか認識していなかった。
いつからだろう。車検や無料点検などでいつも私の担当をしてくれる。正確に言えば私の“車”、を担当してくれる。
ガソリンを入れに行ったときに年下のキミの姿が見えないとがっかりしている自分がいた。その姿が見られるだけでうれしくなっていた。ただそれ以上は深く考えていなかった。いくつになってもこんな気持ちになるのかな。
姿が見られるだけで満足していた。それだけでよかったのに。
「タイヤの空気圧、来たときにいつでも見ますね。」
ガソリンを入れていると最近では離しかけてくれるようになった。
自分の気持ちに気づいて動揺した。なぜなら、その気持ちに気づいたのがまだ彼と付き合っていた頃だから。でもどうしようもなかった。彼への気持ちから年下のキミに傾いてしまっている。車のこと以外で話した記憶がないキミなのに。キミとのやり取りが急に思い出されてくる。サインするときに、書きやすいように指で押さえてくれてドキリとした。切れたブレーキランプをサービスで交換してくれたりもした。自分でも気づかないうちに惹かれ始めていた。
片思い・・・。こんな気持ち、学生以来だ。
「この前車見たときに思ったんですが、根本さんの車の色だと、そろそろコーティングをしたほうがいいと思います。いつも利用していただいているのでお安くしておきます。上司もいいと言ってます。」
勘違いしてしまいそうだ。そんなときに心の悪魔はささやく。
「それは常連客だからだ。」
分かっている。分かっているけど、年下のキミも私と同じ気持ちでいてくれたらいいなって、期待してしまう。店員と客の関係だからキミが踏み出せないんだと。
なんて睫毛が長いんだろう。瞳も澄んでいる。説明してくれるキミの横顔を初めてまじまじと見たと思う。
渡邊。
名札に目を落とした。キミ、渡邊くんて言うんだ。私は名字も知らないキミに惹かれ始めていたんだね。
「コーティングは40分程度お時間がかかってしまいますが、一切手は抜きませんので。」
そう、キミは言った。私の心臓は早くなる。
店内で待っている間文庫本を読みながら、ガラス越しにキミの仕事をちらりと見た。本の内容がちっとも頭に入ってこない。車のことは分からない私でも、とても丁寧にしてくれているのは伝わってくる。
いたずらに時間だけが過ぎていった。
なかなか車以外の話をする機会がない。でもどうしても話がしたい。会計を済ませもう車に乗り込む、という時に、
「家は近いんですか?」
話しかけてくれた。それから1分くらいのやり取りだったと思うが、時が止まったようだった。キミについても少し知ることができた。今はこの町には住んでいないけど、中学は私と同じ学校だった。共通点を見つけてうれしくなったが、それ以上会話が広がらなかったことに落ち込んだ。
「次回のコーティングは三ヵ月後になります。近くなったら自分からも声かけますね。」
それでガソリンスタンドを後にした。
家に帰ってからしばらくぶりに中学の卒業アルバムを開いてみた。もしかしたらと思ったけど・・・載っているわけないよな。
3ヵ月後は、2月14日・・・。
キミは私の思いになんて気づいていないんだろうな。
私がキミのことを知らないように、キミも私のことを知らない。
キミには彼女がいるかもしれない・・・。もしかしたら奥さんがいるかもしれない・・・。キミの年齢さえ知らないけど、接客態度や容姿からしていてもおかしくない。20代も後半になってくると周りは結婚したり出産したりしているから踏み出しにくくなる。いてもおかしくないと思えるけど、そんな事実を知るのが怖い。
“恋の病”とは、誰が言った言葉なのだろう。いくつになってもこの病気を患わせてしまうものなのかな。恋の病か・・・。今の自分にしっくりくる言葉だ。
この日も家に帰る前に寄った。
ガソリンの残量は十分にあるけれど・・・、キミに、・・・会いたかった。
違う顔ばかりで不安になった。キミを見つけられなかった。今日はいないのか、と思ってがっかりした。誰か処方箋を出してほしい。家に帰ってからふと頭に浮かぶのは、睫毛の長いきれいな横顔。
吐く息が白くなってきた。車のフロントガラスも凍るようになってきた。