人は生まれやがて死に行く
たしかにそうだけど、彼の死はあまりにも早かった。
わたしより六つ年上の三十六歳。
事故死だった――。
しかもわたしの目の前での――。
わたしは失意のどん底にいた。
結婚して七年、燃え上がるような思いを持ち続けられる訳は無いけれど、子供がいなかったせいもあるだろう、わたし達はわたしと同年代の友人達と比べてもとても仲の良い夫婦だったと思う。
配偶者の死亡という事で会社からは一週間の休暇をもらったけれど、わたしは既に二週間も家に閉じこもっていた。
何もする気が起こらないのに、ちゃんと一日に一回は食事をして、二日に一度くらいはお風呂にも入り、三日に一度くらいは掃除もした。
そういう事を無視し続けることが出来ない性格なのだ。
こんな時くらい全てを忘れて泣き続けられれば良いのに。
そんな事を考えては落ち込んでしまう。
でも何より許せないのは自分がだんだん立ち直ってきている事だった……。
三週間と二日目の朝、わたしはやっと会社へ行く決心がついた。
出掛ける用意をして玄関へ立つと、突然ガチャガチャとドアを開けようとする音がしだした。
泥棒だろうか?
ずっと居るのか居ないのか分からないような生活を続けてきたから?
わたしは恐る恐る小さな覗き穴から外を見た。
そして、ある意味 泥棒より怖いものを見た。
そんな事は有り得ない。
わたしは振るえる手でチェーンを外し鍵を開けた。
ドアを開けると彼が立っていた。
「ただいま」
以前と変わらない、ちょっと照れたような笑顔で彼はそこに立っていた。
幽霊なんかではない、現実に彼は存在した。
思わず胸に飛び込むと、わたしの頭は背の高い彼のあごの下に収まってしまう。
彼の胸は少し土臭いような切ない匂いがした。
覆い被さる様に彼の両腕がわたしを包む。
わたしは子供のように声をあげて泣き始めた。
結局、会社にはもう少し休むと連絡を入れた。
もしかするとこのままクビになってしまうかもしれない。
でもそれより、今はもっと大事な時間を過ごせるような気がして、少しも不安感は湧いてこなかった。
それから数日間、わたし達は懐かしい想い出の中で語り合い、遠い未来に夢をはせ、今在る温もりに身を委ねた。
でもそれは本当に数日間だけだった。
違和感は始めから少しは感じていた。
でも考えない様にしていたし、考えたくなかったのだ。
不思議な事に彼には昨日の記憶が無い。
代わりに明日に起こる出来事を鮮明に憶えているみたいなのだ。
昨夜、激しく愛し合ったことさえも翌朝にはすっかり忘れてしまう……。
わたしはわたしの気持ちだけが空回りしている様な気がして、悲しくなった。
彼が戻ってくれてから一週間経つと、うすうす感じていた事がハッキリしてきた。
一日にいや正確には一夜明ける度に、彼は一歳づつ若返っている……。
一週間経った今、彼はわたしと結婚したときの年齢に戻っていた。
少し太ってしまって着れなくなっていたあの頃の服を、あの頃の彼のままに着こなしていた。
そして六歳違いのわたしより若くなってしまった……。
たぶん、彼の時間は、わたし達のソレとは進み方が逆なのだろう。
わたしの昨日は彼にとっての未来。
わたしの明日は彼にとっての過去なのだと……。
でもわたしにとっての明日、彼にとっての昨日の事を、楽しそうに話す彼を見ていると堪らなくなる。
おもいっきり抱きしめたくなるのだ。
わたしよりも若くなってしまった彼のことを……。
目覚めるたびに彼は若返ってゆく。
わたしと同じ年に。
わたしより年下に。
彼はわたしと出会った頃より若くなってしまうと、わたしの事を「ねえさん」と呼ぶようになった。
記憶とは違う現実で精神に傷をつけない様に、架空の記憶が上書きされているのかもしれない。
そして別々の布団で眠り、朝を迎えるようになった。
それは昨日の記憶がまるで無い彼には少しも不自然では無い事の様だった。
でもわたしは、わたしの事を誤った記憶の中で呼び掛ける彼への違和感を振り払う為に数日間を費やしてしまった。
その後、大学生の彼と映画をハシゴして、高校生の彼とはアイススケートを楽しむことができた。
目覚めるたびに彼は若返ってゆく。
少年の彼はわたしを「ママ」と呼んだ。
小学生になった彼を連れてテーマパークに出かけ、楽しい時間を過ごした。
幼児の彼とは動物園にも行った。
そして乳児の彼を一日抱きしめて、わたしのまぼろしの様な日々は終わりを迎えた。
三十八日目の朝、彼であった赤ん坊の姿はもう消えてしまっていた。
しかし、何か胸騒ぎがして、彼を寝かしていた布団をめくると、そこには彼の代わりに小さな“たまご”が寝て居た。
鶏卵よりかなり小ぶりで、薄く紫がかったその表面には血管にも似た細かい模様が所々に走っていた。
わたしは思わずその“たまご”を手に取り壊さない様、気を遣いながら抱きしめた。
そして、まだ残っている彼の体温を逃がさない様にソレを柔らかい布で包み、わたしの体温で一日温め続けた。
翌朝、目覚めた時にはその“たまご”さえも消えていた。
包んだ布のカタチだけを残して……。
でも、わたしは知っていた。
それは最後の選択だったのだ。
そして私の選んだとおり――彼は私の中に消えて行ったのだと――。
わたしは妊娠していた。
わたしの両親や友人はこの子を産むことに反対したけれど、わたしは既に産む決心をしていた。
たった一ヶ月と少しの付き合いだったけど、わたしはこの子をとてもいとおしく感じていた。
この子の顔を早く見たくて仕方がなかったのだ。
わたしは自分のお腹に手をあててつぶやく。
「元気なキミに早く会いたいよ。でも今はゆっくりおやすみなさい」と……。
おわり
03.02.28
人は生まれやがて死に行く。
あたりまえなんですが、逆だったらどうなんだろう? って思ったのでした。
でもタイトルが浮かばなかったので、逆のタイトルをつけちゃいました。
母の胎内に戻る為の時間のはなし。
どこまでが“彼”でどこからが“この子”なのか、無責任ですが私にも分かりません。
よくみると彼は「ただいま」以外何も喋ってない。
初めは彼が土の中から出てくる、ホラーっぽいものにしようと思ったんですが、上手く行きませんでした。
数年前に「ベンジャミン・バトン」という映画を観ましたが、なんかちょっと似てるかなぁ、と思ったものでした。
ちなみに本作は殆どあらすじ状態です。プロットと言っても良いかも。
そのうち直そうと思いつつ早八年。。。
作品名:人は生まれやがて死に行く 作家名:郷田三郎(G3)