「忘れられない」 第九章 暗転
第九章 暗転
有紀はもうどうしていいのか解らなくなってしまった。とりあえず病室を出て外で頭を冷やそうと思った。廊下の突き当たりは小窓があって外が見える。五階から見る景色はのどかで稲穂の緑が黄色がかってきた様子が良く見える。もうすぐ秋が訪れるのだろうと、ぼんやり眺めていた。
去年自分が病室から外を眺めて明雄のことを考えてから、一年が経つ。妙智寺へ行き、明雄の手紙を受け取ってからの今日までの時間はあっという間だった。仁美と知り合い、裕美と知り合い、森夫婦と知り合い、安田と知り合いそして麗子と知り合い、明雄と逢うことが出来た。全てうそのように順調に来た。怖いぐらいに運勢は有紀に味方をしてきた。
いろんな人に助けられながらやっと逢うことが出来たのに、明雄の自分への想いは、「別れよう」と言える程度のものだったのか。そう考えると無性に悲しくなる。男の人には面子があって、女が理解するのは難しいのかも知れないが、自分だけが夢中になってなりふり構わず走ってきたことがあの一言で、独りよがりだったのか・・・と虚しくなってきてしまう。もう、泣くことも出来ないぐらいに、空っぽになってゆく自分を感じた。
冷静に考えたら、明雄は過去に政略結婚をして苦汁を舐めさせられている。なのにまた繰り返しているのだ。事情は違うが、相手の女性を悲しませた事は事実だ。そのどちらの場合にも、自分の存在が明雄の中で大きくなって来たためだった。二人の女性を不幸にしてまで、有紀は幸せを追い求めてきたのだ。そのことに気付いた。一昨日の沙織という女性はどのような思いで、有紀に封筒を手渡したのだろうか・・・明雄に会って、考え直すようにもう一度聞いてみるつもりではなかったのだろうか。その結果だめなら、封筒を渡すと・・・そうしたかったのではないのか。「奥さまですか?」と聞かれて、「はい」と答えた自分は、その瞬間彼女から全てを奪ってしまったのかも知れない・・・わずかな希望を踏みにじるように。
明雄と過ごしたはじめての夜、「もう離さないから」と言ってくれた事は私を悲しませない気持ちからなのだろう。有紀は解っていた。男の人がその場の雰囲気で話すことを・・・
京都から名古屋へ帰って遠距離恋愛になったとき、「どんなことがあっても気持ちは変わらないから」と明雄は言ってくれた。それは、私を寂しくさせないようにとの心遣いだったのだ。今考えると、信じたくは無いが名古屋で何をしていたのかわからない・・・何もかもが信じられなくなりそうで、胸が締め付けられるように痛い。
有紀は潰されそうな自分の思いを必死に支えようとしていた。真っ白なキャンパスではわずかな汚点が出来ただけで、毎日その場所が気になってしまう、そんな状況だった。人生も50年を超えてくると真っ白なキャンパスではいられない。いや賢くグレーに変えてしまうのだ。恋愛は新しくなるたびに真っ白のキャンパスに交換される。何度も同じ過ちを繰り返すのはそのためだ。始めたばかりの有紀の恋愛はたった数ヶ月で汚されてしまった。もっと冷静に、もっとゆっくりと愛してゆけるようにならないといけない。熱い気持ちを青春時代のようにぶつけては、ほこりが立ってしまうことを教えられた。
丁寧に汚れを落とし、綺麗になった中身を確かめる、そんな慎重さが晩年の恋には必要だったのかも知れない。夢は夢、現実は現実、叶うだろう事と、叶えられる事とは食い違う。今でも明雄のことが好きだ。それは変わらない。少し距離を置いて接してゆこうと有紀は考え始めた。病室へ戻って、明雄に有紀は謝った。
「ごめんなさい・・・叩いたりして。どうかしてたわ。自分の想いが強すぎたのね。明雄さんのこともっと理解しなきゃダメってわかったの。あなたの言うとおりにするから、安心して」
「有紀、本当にすまない・・・ボクを信じて欲しい。もう別れるなんて言わないから」
「はい、大丈夫ですよ。頑張って治療に専念しましょう」
何故か気持ちが妙に落ち着いていた。女って割り切ったらさっぱりするってよく言われるが、その通りだと感じた。気になることがあったので、電話をかけるために病室を出た。
有紀は明雄の見せた離婚届から、沙織の電話番号を記憶していた。ロビーに行って、携帯からその番号へ電話をかけてみた。
「はいこちらは石原沙織です。ただいま留守に・・・」留守電にはっきりと「石原沙織」と名乗っていた。正式に離婚届を受理されていないから、姓が「石原」でも間違いではない。普通は旧姓に戻して名乗る女性が多いようだが、「石原」姓を二年間も名乗っている事は、子供がいない関係では普通じゃないと有紀には感じられた。
「一昨日お会いしました有紀です。お帰りになられたらお電話下さい」そう言い残して電話を切った。
「何をしてきたの?」明雄は有紀にそう聞いた。
「電話をしていたの。こちらに少し長く居る事になるから、会えないって・・・」うそをついた。
「そう、ボクも安田さんに連絡しないといけないな・・・ロビーから掛けてくるかな。ここで待っていてくれる?それとも一緒に来る?」
「聞かれたくないこともあるでしょ。待っているわ。ごゆっくりしてきて」
「うん、じゃあ、行って来るから」
一人になった病室から外を眺めた。この方向から例のカラオケ喫茶が見えるではないか。有紀はふと、うさ晴らしに今夜にでも行って見ようかと思い立った。それほど今、気持ちは冷静に変わっていた。明雄と一緒に夕食を採り、明日またね・・・と午後8時前にさようならをしてまだ蒸し暑さが残る田んぼ道を、いつもとは逆に川沿い方向に歩いていた。
「いらっしゃいませ・・・あら、この間の・・・お一人ですか?」ママは覚えていてくれた。
「はい、近くに来ましたので、立ち寄らせて貰いました。構いませんか?」
「どうぞどうぞ・・・お好きな席にお掛け下さい」
大胆にも有紀は目が合った裕司の隣に座った。
「この前は素敵なお歌聞かせて頂きまして、ありがとうございました。お隣に座らせていただいて宜しいでしょうか?」
「はい、歓迎です。あれからお越しになられないかと待っていたのですよ」
「ありがとうございます。これから時々寄らせていただきますね」
ママの目には「有紀さんに何かあったのかしら」と映っていた。
「そういえば正式に名乗ってはいなかったですね。ここではゆうじって通っていますが、岡田裕司と言います。よろしくお願いします」改まってそう名乗ってきた。
「私は埜畑有紀と言います。大阪から来ました。しばらくはこちらにいる予定です。この当りは良く知りませんので不慣れです。住んでいるのは名古屋市内です」
「埜畑さん・・・近くご結婚されるとこの前もう一人の方が仰っていましたよね?そうなんですか?」
「ええ、その予定です。はっきりとは言えませんが遅くとも年内にはと思っています」
「何かすぐにされない理由でもあるのですか?」
「夫になる人が目の前の病院に入院しているんです。治って退院したらって決めておりますので・・・」
ママが急に口を挟んできた。
「そうなんですの!お大事にね。失礼ですがお悪いの?」
有紀は、表情を変えずに話せた。
有紀はもうどうしていいのか解らなくなってしまった。とりあえず病室を出て外で頭を冷やそうと思った。廊下の突き当たりは小窓があって外が見える。五階から見る景色はのどかで稲穂の緑が黄色がかってきた様子が良く見える。もうすぐ秋が訪れるのだろうと、ぼんやり眺めていた。
去年自分が病室から外を眺めて明雄のことを考えてから、一年が経つ。妙智寺へ行き、明雄の手紙を受け取ってからの今日までの時間はあっという間だった。仁美と知り合い、裕美と知り合い、森夫婦と知り合い、安田と知り合いそして麗子と知り合い、明雄と逢うことが出来た。全てうそのように順調に来た。怖いぐらいに運勢は有紀に味方をしてきた。
いろんな人に助けられながらやっと逢うことが出来たのに、明雄の自分への想いは、「別れよう」と言える程度のものだったのか。そう考えると無性に悲しくなる。男の人には面子があって、女が理解するのは難しいのかも知れないが、自分だけが夢中になってなりふり構わず走ってきたことがあの一言で、独りよがりだったのか・・・と虚しくなってきてしまう。もう、泣くことも出来ないぐらいに、空っぽになってゆく自分を感じた。
冷静に考えたら、明雄は過去に政略結婚をして苦汁を舐めさせられている。なのにまた繰り返しているのだ。事情は違うが、相手の女性を悲しませた事は事実だ。そのどちらの場合にも、自分の存在が明雄の中で大きくなって来たためだった。二人の女性を不幸にしてまで、有紀は幸せを追い求めてきたのだ。そのことに気付いた。一昨日の沙織という女性はどのような思いで、有紀に封筒を手渡したのだろうか・・・明雄に会って、考え直すようにもう一度聞いてみるつもりではなかったのだろうか。その結果だめなら、封筒を渡すと・・・そうしたかったのではないのか。「奥さまですか?」と聞かれて、「はい」と答えた自分は、その瞬間彼女から全てを奪ってしまったのかも知れない・・・わずかな希望を踏みにじるように。
明雄と過ごしたはじめての夜、「もう離さないから」と言ってくれた事は私を悲しませない気持ちからなのだろう。有紀は解っていた。男の人がその場の雰囲気で話すことを・・・
京都から名古屋へ帰って遠距離恋愛になったとき、「どんなことがあっても気持ちは変わらないから」と明雄は言ってくれた。それは、私を寂しくさせないようにとの心遣いだったのだ。今考えると、信じたくは無いが名古屋で何をしていたのかわからない・・・何もかもが信じられなくなりそうで、胸が締め付けられるように痛い。
有紀は潰されそうな自分の思いを必死に支えようとしていた。真っ白なキャンパスではわずかな汚点が出来ただけで、毎日その場所が気になってしまう、そんな状況だった。人生も50年を超えてくると真っ白なキャンパスではいられない。いや賢くグレーに変えてしまうのだ。恋愛は新しくなるたびに真っ白のキャンパスに交換される。何度も同じ過ちを繰り返すのはそのためだ。始めたばかりの有紀の恋愛はたった数ヶ月で汚されてしまった。もっと冷静に、もっとゆっくりと愛してゆけるようにならないといけない。熱い気持ちを青春時代のようにぶつけては、ほこりが立ってしまうことを教えられた。
丁寧に汚れを落とし、綺麗になった中身を確かめる、そんな慎重さが晩年の恋には必要だったのかも知れない。夢は夢、現実は現実、叶うだろう事と、叶えられる事とは食い違う。今でも明雄のことが好きだ。それは変わらない。少し距離を置いて接してゆこうと有紀は考え始めた。病室へ戻って、明雄に有紀は謝った。
「ごめんなさい・・・叩いたりして。どうかしてたわ。自分の想いが強すぎたのね。明雄さんのこともっと理解しなきゃダメってわかったの。あなたの言うとおりにするから、安心して」
「有紀、本当にすまない・・・ボクを信じて欲しい。もう別れるなんて言わないから」
「はい、大丈夫ですよ。頑張って治療に専念しましょう」
何故か気持ちが妙に落ち着いていた。女って割り切ったらさっぱりするってよく言われるが、その通りだと感じた。気になることがあったので、電話をかけるために病室を出た。
有紀は明雄の見せた離婚届から、沙織の電話番号を記憶していた。ロビーに行って、携帯からその番号へ電話をかけてみた。
「はいこちらは石原沙織です。ただいま留守に・・・」留守電にはっきりと「石原沙織」と名乗っていた。正式に離婚届を受理されていないから、姓が「石原」でも間違いではない。普通は旧姓に戻して名乗る女性が多いようだが、「石原」姓を二年間も名乗っている事は、子供がいない関係では普通じゃないと有紀には感じられた。
「一昨日お会いしました有紀です。お帰りになられたらお電話下さい」そう言い残して電話を切った。
「何をしてきたの?」明雄は有紀にそう聞いた。
「電話をしていたの。こちらに少し長く居る事になるから、会えないって・・・」うそをついた。
「そう、ボクも安田さんに連絡しないといけないな・・・ロビーから掛けてくるかな。ここで待っていてくれる?それとも一緒に来る?」
「聞かれたくないこともあるでしょ。待っているわ。ごゆっくりしてきて」
「うん、じゃあ、行って来るから」
一人になった病室から外を眺めた。この方向から例のカラオケ喫茶が見えるではないか。有紀はふと、うさ晴らしに今夜にでも行って見ようかと思い立った。それほど今、気持ちは冷静に変わっていた。明雄と一緒に夕食を採り、明日またね・・・と午後8時前にさようならをしてまだ蒸し暑さが残る田んぼ道を、いつもとは逆に川沿い方向に歩いていた。
「いらっしゃいませ・・・あら、この間の・・・お一人ですか?」ママは覚えていてくれた。
「はい、近くに来ましたので、立ち寄らせて貰いました。構いませんか?」
「どうぞどうぞ・・・お好きな席にお掛け下さい」
大胆にも有紀は目が合った裕司の隣に座った。
「この前は素敵なお歌聞かせて頂きまして、ありがとうございました。お隣に座らせていただいて宜しいでしょうか?」
「はい、歓迎です。あれからお越しになられないかと待っていたのですよ」
「ありがとうございます。これから時々寄らせていただきますね」
ママの目には「有紀さんに何かあったのかしら」と映っていた。
「そういえば正式に名乗ってはいなかったですね。ここではゆうじって通っていますが、岡田裕司と言います。よろしくお願いします」改まってそう名乗ってきた。
「私は埜畑有紀と言います。大阪から来ました。しばらくはこちらにいる予定です。この当りは良く知りませんので不慣れです。住んでいるのは名古屋市内です」
「埜畑さん・・・近くご結婚されるとこの前もう一人の方が仰っていましたよね?そうなんですか?」
「ええ、その予定です。はっきりとは言えませんが遅くとも年内にはと思っています」
「何かすぐにされない理由でもあるのですか?」
「夫になる人が目の前の病院に入院しているんです。治って退院したらって決めておりますので・・・」
ママが急に口を挟んできた。
「そうなんですの!お大事にね。失礼ですがお悪いの?」
有紀は、表情を変えずに話せた。
作品名:「忘れられない」 第九章 暗転 作家名:てっしゅう