あやめるゆび
死にたい、と思った。でもいつだって、死ねなかった。
[ あ や め る ゆ び ]
病院のベッドで目が覚めるのは久しぶりだった。どうやら自分は昨晩病院に運び込まれたらしい。目覚めたときはこのベッドの上にいた。
そんなにひどかったのかと空虚な気分で苦笑しながら蒼白い天井を見つめる。「まだ自分は此処に居る」という現実に深い脱力感を感じた。
外は雨だった。病室にはひんやりとした冷気が漂っていて、雨の雫が窓ガラスに反射して壁に淡く映し出されている。
「寝すぎなんだよ」
矢城の声がした。
その声を聞いて初めて横に矢城が付いていてくれたことに気づく。呆れた。どうしてすぐに気づかなかったのだろう。こんな無機な部屋の中にあるたった一つの大事な存在なのに、ちっとも気づかなかった、彼の空気を。
「いつからいたの」
「昨日の夜からだ」
「…そう」
「お前の母さんから連絡もらったんだよ」
「お母さん、また連絡したの。しなくてよかったのにな…」
「今回は俺がすぐに気づけなかった」
「一人でやったもの」
「俺が傍に居るべきだった」
「……」
矢城にはもう会えないつもりで、切った。傍にいてほしいなんて考えもしなかったし、矢城に迷惑かけるのだけは嫌だったから。
でも結果的にはやっぱり迷惑かけてしまった。
「ねえ、もう毎回わざわざ来なくていいよ…」
矢城から視線を逸らしてまた天井を見つめる。なにもかもが空ろに思えた。あまりにも冷ややかな白い四角の中で自分は何をやっているのか…、望んだこともやり遂げられずに泣くことも言葉を紡ぐこともまともに出来そうにない。矢城の声すら馬鹿馬鹿しいような気がした。
私の細い手首には当然の如く白い包帯が固く巻いてある。夢ではなく現実なのだと打ちのめすために存在する白い手首。この包帯の下にある自分の皮膚に刻まれた苦痛は、きっと矢城までも苦しませるものなんだろう。
そんなの、わかりきっているのに。それでも止まらない、止まってくれない。まだこの頭の中には色濃く淡い感情が錆び付いているのだから。
「死にたかったのに」
苦痛の言葉すら止まらなかった。
何を言ってもやっぱり生きてる。今回も―――いや、いつもだ。
「ばか言ってんじゃねぇよ」
私の弱々しい言葉に矢城はいつもの言葉を吐いた。彼なりの言葉。けれど、違う、と思う。普段はもっと堂々としているのに、このときだけは違うと。悔しそうな瞳でこの言葉を言う矢城は、私の好きな矢城じゃない。彼は、違う。私の所為で矢城じゃなくなってしまう。
そんなのわかってるわかってるわかってる…
それでも自分の存在理由が見つからなかった。必死に探したけれど、どこにも見出せなかった。
「死にたかった…んだよ…」
もういらないから死にたいと思ってカッターを探した。けれど見つからなくてハサミを握り締めた。
「血が…止まらないと思った」
手首を切ったとき、なにもわからなくなった。ただこのまま消えることを考えて切れるだけ奥まで刃を入れた。溢れ出る鮮血は白いブラウスに染み込んで、私の意識を遠のかせていく。もう痛みすら感じない、なにもわからない、感じない。泣けたらいいのにと思うほど感情は凍りついていた。目を閉じてこのままなにも映すことはなくなるのだと、そう信じて眠りについたのに。それでも私の瞳は光を失うことはなく、やっぱり矢城が映されているのだ。
こういうことを何度も繰り返してきた。幾度も矢城は「ばかだ」と言った。
わからない。どうして、生きてる?
「死なせねぇよ」
矢城はそう言って私の傷ついた腕を握り締めた。そっと包み込まれた腕から矢城の温かさが広がっていく。なにも感じなくなっていた今の私にはその温かさだけが鮮明だった。
「死にたくなかったんだろ」
矢城の言葉を聞いて私は静かに彼に顔を向ける。矢城はなに一つ変わらない表情で、じっと私の瞳を見据えていた。
「死にたかったのよ」
「じゃあ、どうしてリストカットなんだよ」
「…なにが言いたいの?」
冷笑なのかわからなかった。けれど矢城は嘲笑するように笑った。
「本当に死にたいなら、手首なんて切らねぇだろ」
「…どういうこと」
「助けて欲しいから、リスカなんて曖昧な死に方しようとしたんだ、お前は」
本当に死にたいやつはリスカなんてしないで、もっと簡単に死ねる方法を選ぶ。なのにお前は助かる可能性が充分ある方法を選んだんだろ。
「違う。私は死にたかった」
手首を切れば死ねると思った。そのまま血に染まって冷たくなっていけると、そう思っていた。けれどいつだって助けられる。矢城にだ。
「私は…死に、たくて」
どうして生きているのか時々わからなくなって、息が詰まるほど苦しくなるときがある。私は要らない子。私は消えてしまうべきなんだ。誰にも必要とさせず誰にも愛されない。矢城のことも忘れてしまうくらい、私は存在理由の無に怯えていた。
死にたい死にたい死にたいもう死んでしまいたい助けて私は私は…
突然、ガシャンという大きな衝撃音が耳に響いた。ふと横を見ると置いてあったはずの花瓶が床にバラバラになって散らばっている。矢城が落としたらしかった。
「じゃあ、俺が殺してやる」
私にそう言い放った矢城の瞳が紺青に塗りつぶされたように鋭く光った。矢城は割れた花瓶の欠片を拾い上げてから、右手でガラスを握り締め、もう片方の手で私の肩を押さえつける。
「…なに言ってるの」
「これなら確実に死ねるだろ」
矢城の意思がそのとき初めてわかった。―――矢城は私を殺してくれるんだ。死にたいと望んでいた私を本当に望みどおりにしてくれる。
矢城の右手が大きく振りかざされると、私はぎゅっと目を瞑った。
「…やっ!」
自分の口から出た悲鳴に私ははっとして驚く。恐る恐る目を開けてみると矢城は私の顔を見つめたまま悲しそうな顔をしていた。矢城の殺める指は私の上に落とされず止まったままだ。
「死にたくないなら、どうして…」
どうしていつもそうなんだ、と、矢城は叫ぶ。
私は言葉を失った。ただ震えていた。泣くことも出来なかったはずなのに、何故か涙がこぼれてくる。
「いい加減にしろよ…」
もう死のうなんて思うな、一人で苦しむな。声にならない矢城の言葉が肩を抑える手から熱く伝わってくる。
そのとき、私の頬にぽたりと矢城の血が滴った。ガラスを握った矢城の右手から、指を伝って赤色が溢れている。
「矢城、血が…」
「…あ?」
「血が…、ねえ血が出てる」
「これくらい大丈夫だ」
矢城はガラスを床に投げて切り裂かれた右手を舐めた。
真っ赤に染まる唇。矢城の白い肌に伸びた血の帯。
「やし、ろ…早く止めなきゃ」
私は矢城の右手にそっと触れた。ひどく冷たいような気がする。
「ごめんな、さい…」
あのとき。ハサミを取ったとき、死にたい、と思った。
「…」
でもいつだって、死ねなかった。
「もう絶対に、不安にさせねぇ」
助けて欲しかった。殺める指が怖かった。ずっと誰かに助けてもらうのを待っていた。
「俺がお前を、守るから」
矢城は私を抱きしめた。強く、壊れそうなくらいに。
[ あ や め る ゆ び ]
病院のベッドで目が覚めるのは久しぶりだった。どうやら自分は昨晩病院に運び込まれたらしい。目覚めたときはこのベッドの上にいた。
そんなにひどかったのかと空虚な気分で苦笑しながら蒼白い天井を見つめる。「まだ自分は此処に居る」という現実に深い脱力感を感じた。
外は雨だった。病室にはひんやりとした冷気が漂っていて、雨の雫が窓ガラスに反射して壁に淡く映し出されている。
「寝すぎなんだよ」
矢城の声がした。
その声を聞いて初めて横に矢城が付いていてくれたことに気づく。呆れた。どうしてすぐに気づかなかったのだろう。こんな無機な部屋の中にあるたった一つの大事な存在なのに、ちっとも気づかなかった、彼の空気を。
「いつからいたの」
「昨日の夜からだ」
「…そう」
「お前の母さんから連絡もらったんだよ」
「お母さん、また連絡したの。しなくてよかったのにな…」
「今回は俺がすぐに気づけなかった」
「一人でやったもの」
「俺が傍に居るべきだった」
「……」
矢城にはもう会えないつもりで、切った。傍にいてほしいなんて考えもしなかったし、矢城に迷惑かけるのだけは嫌だったから。
でも結果的にはやっぱり迷惑かけてしまった。
「ねえ、もう毎回わざわざ来なくていいよ…」
矢城から視線を逸らしてまた天井を見つめる。なにもかもが空ろに思えた。あまりにも冷ややかな白い四角の中で自分は何をやっているのか…、望んだこともやり遂げられずに泣くことも言葉を紡ぐこともまともに出来そうにない。矢城の声すら馬鹿馬鹿しいような気がした。
私の細い手首には当然の如く白い包帯が固く巻いてある。夢ではなく現実なのだと打ちのめすために存在する白い手首。この包帯の下にある自分の皮膚に刻まれた苦痛は、きっと矢城までも苦しませるものなんだろう。
そんなの、わかりきっているのに。それでも止まらない、止まってくれない。まだこの頭の中には色濃く淡い感情が錆び付いているのだから。
「死にたかったのに」
苦痛の言葉すら止まらなかった。
何を言ってもやっぱり生きてる。今回も―――いや、いつもだ。
「ばか言ってんじゃねぇよ」
私の弱々しい言葉に矢城はいつもの言葉を吐いた。彼なりの言葉。けれど、違う、と思う。普段はもっと堂々としているのに、このときだけは違うと。悔しそうな瞳でこの言葉を言う矢城は、私の好きな矢城じゃない。彼は、違う。私の所為で矢城じゃなくなってしまう。
そんなのわかってるわかってるわかってる…
それでも自分の存在理由が見つからなかった。必死に探したけれど、どこにも見出せなかった。
「死にたかった…んだよ…」
もういらないから死にたいと思ってカッターを探した。けれど見つからなくてハサミを握り締めた。
「血が…止まらないと思った」
手首を切ったとき、なにもわからなくなった。ただこのまま消えることを考えて切れるだけ奥まで刃を入れた。溢れ出る鮮血は白いブラウスに染み込んで、私の意識を遠のかせていく。もう痛みすら感じない、なにもわからない、感じない。泣けたらいいのにと思うほど感情は凍りついていた。目を閉じてこのままなにも映すことはなくなるのだと、そう信じて眠りについたのに。それでも私の瞳は光を失うことはなく、やっぱり矢城が映されているのだ。
こういうことを何度も繰り返してきた。幾度も矢城は「ばかだ」と言った。
わからない。どうして、生きてる?
「死なせねぇよ」
矢城はそう言って私の傷ついた腕を握り締めた。そっと包み込まれた腕から矢城の温かさが広がっていく。なにも感じなくなっていた今の私にはその温かさだけが鮮明だった。
「死にたくなかったんだろ」
矢城の言葉を聞いて私は静かに彼に顔を向ける。矢城はなに一つ変わらない表情で、じっと私の瞳を見据えていた。
「死にたかったのよ」
「じゃあ、どうしてリストカットなんだよ」
「…なにが言いたいの?」
冷笑なのかわからなかった。けれど矢城は嘲笑するように笑った。
「本当に死にたいなら、手首なんて切らねぇだろ」
「…どういうこと」
「助けて欲しいから、リスカなんて曖昧な死に方しようとしたんだ、お前は」
本当に死にたいやつはリスカなんてしないで、もっと簡単に死ねる方法を選ぶ。なのにお前は助かる可能性が充分ある方法を選んだんだろ。
「違う。私は死にたかった」
手首を切れば死ねると思った。そのまま血に染まって冷たくなっていけると、そう思っていた。けれどいつだって助けられる。矢城にだ。
「私は…死に、たくて」
どうして生きているのか時々わからなくなって、息が詰まるほど苦しくなるときがある。私は要らない子。私は消えてしまうべきなんだ。誰にも必要とさせず誰にも愛されない。矢城のことも忘れてしまうくらい、私は存在理由の無に怯えていた。
死にたい死にたい死にたいもう死んでしまいたい助けて私は私は…
突然、ガシャンという大きな衝撃音が耳に響いた。ふと横を見ると置いてあったはずの花瓶が床にバラバラになって散らばっている。矢城が落としたらしかった。
「じゃあ、俺が殺してやる」
私にそう言い放った矢城の瞳が紺青に塗りつぶされたように鋭く光った。矢城は割れた花瓶の欠片を拾い上げてから、右手でガラスを握り締め、もう片方の手で私の肩を押さえつける。
「…なに言ってるの」
「これなら確実に死ねるだろ」
矢城の意思がそのとき初めてわかった。―――矢城は私を殺してくれるんだ。死にたいと望んでいた私を本当に望みどおりにしてくれる。
矢城の右手が大きく振りかざされると、私はぎゅっと目を瞑った。
「…やっ!」
自分の口から出た悲鳴に私ははっとして驚く。恐る恐る目を開けてみると矢城は私の顔を見つめたまま悲しそうな顔をしていた。矢城の殺める指は私の上に落とされず止まったままだ。
「死にたくないなら、どうして…」
どうしていつもそうなんだ、と、矢城は叫ぶ。
私は言葉を失った。ただ震えていた。泣くことも出来なかったはずなのに、何故か涙がこぼれてくる。
「いい加減にしろよ…」
もう死のうなんて思うな、一人で苦しむな。声にならない矢城の言葉が肩を抑える手から熱く伝わってくる。
そのとき、私の頬にぽたりと矢城の血が滴った。ガラスを握った矢城の右手から、指を伝って赤色が溢れている。
「矢城、血が…」
「…あ?」
「血が…、ねえ血が出てる」
「これくらい大丈夫だ」
矢城はガラスを床に投げて切り裂かれた右手を舐めた。
真っ赤に染まる唇。矢城の白い肌に伸びた血の帯。
「やし、ろ…早く止めなきゃ」
私は矢城の右手にそっと触れた。ひどく冷たいような気がする。
「ごめんな、さい…」
あのとき。ハサミを取ったとき、死にたい、と思った。
「…」
でもいつだって、死ねなかった。
「もう絶対に、不安にさせねぇ」
助けて欲しかった。殺める指が怖かった。ずっと誰かに助けてもらうのを待っていた。
「俺がお前を、守るから」
矢城は私を抱きしめた。強く、壊れそうなくらいに。
作品名:あやめるゆび 作家名:YOZAKURA NAO