柊生さんとぼく
00
月の明るい夜に、彼女は一人佇んでいた。
その足下に完膚なきまで壊れた人間を跪かせ、その矮躯に圧倒的な死の恐怖を従えて。
「ねぇ、見てた?」
歌うような声音で、無感動に発された言葉が月明かりに響く。
美しいばかりの世界を汚すのが怖くて、ただ首を横に振った。
僕は異物でしかない。
今この瞬間が世界中の何より価値ある名画なら、僕はそこに過失で垂らされた一点の黒い染みだ。名画を汚す自分の存在を憎まずにはいられない。
ふぅん、とやはり歌うような声を発して、絵画の中の少女が動いた。きらりと手の中の凶悪な銀が、月明かりを反射して煌いている。小さな足で踏みつけたかつて人間を形成していたものを、彼女は事務的に蹴り転がす。
ごろごろと転がっていく首は、サッカーボールの如く塀に当たって弱弱しく跳ね返った。
切り刻まれた顔は男か女か判別できない。おまけのように横たわる体が纏う布の残骸のおかげで、やっとそれを彼女と呼ぶことが出来るほどに。
「君がやったの?」
ため息をつくように僕は震える声を発した。
青白い美しい世界に染みが広がる。言い知れぬ罪悪感に眩暈がする。
「さぁ……どうだろう」
私が殺したと思う?
その問いかけは誰に向かって発されたのだろう。
僕などには目もくれず、慈悲の色を湛えた瞳で損壊した肉を注視している彼女。長い黒髪が血の赤く散った白い頬にかかっているのが、妙に色っぽい。
「ねぇ、殺してあげようか」
滑らかな動きで彼女はこちらを振り向く。黒目がちな瞳に僕が映りこんだ気がして背筋が冷える。
まるで自分が絵画に飲まれたような錯覚。強い眩暈がした。くらくらと、立っているのが辛い。
絵画に飲まれた染みは声を失って、何も答えることができない。
「死にたいんでしょ」
彼女は研ぎ澄まされた古刀のような凛とした笑みを閃かせた。
その微笑に、僕は声を取り戻す。
「死にたく、ないよ」
「どうして?死ぬのが怖い?」
「そりゃあ、死ぬのは怖い」
「じゃあ、」
血まみれの彼女は微笑んだまま問う。
月を背にしたその顔は、ため息が出るほど美しい。
熟れたように赤く濡れた小さな唇が艶かしく蠢く。
「君はなんで笑ってるの、神津恭介くん」
そこでようやく僕は、自分が奇怪な恍惚の中にいることを知った。