『幕末異譚 第一話 押送船』
万蔵も、元はと言えば万田蔵之助の名を持つ、下級ながら某藩で禄
を食んでいた二本差しである。詰まらぬ諍いが元で同僚を傷付け藩を
離れることになり、流れ流れて富津を訪れ、「瓢」の女亭主と懇ろにな
ったと言う、所謂(いわゆる)、浪人上がりの商人である。
その恋女房も、ペルリ艦隊の持ち込んだ虎狼狸(コロリ=コレラ)
を患い、あっという間にあの世へ行ってしまった。黒船騒ぎばかりか、
とんでもない物まで持ち込んで呉れたものである。
暗い波間に白波立てて、「瓢」所有の押送船(おしょくりせん)が行く。
しかし、急に吹き出した強風をまともに受けて、遅々として進まない。
この船は安房辺りで獲れた魚介類を逸早く江戸の魚河岸
に運ぶために考案された、七丁櫓の槽帆両用の快速船である。
人一人運ぶには、この船で充分と万蔵は考えた。
それに、万が一富津陣屋の見張りの目に留まっても、船足の速さで
逃げ切れるとの判断である。
ペルリ来航以来、陣屋の警戒は日毎に厳しくなっていた。
男は揺れる小船の帆柱の根元にしがみ付いて黙っている。
「お客さん、しっかり掴まってて下せいよ。海に呑まれちゃ大事は
務まりませんからねえ」
男は万蔵の言葉の内容まで配慮出来ないらしい。
船酔いでもしたのかと、万蔵は声を掛ける。
「船は苦手の様ですが、一時(いっとき)の辛抱ですからね」
とは言え、七人の漕ぎ手が懸命に頑張るものの、横殴りの風に
押し戻され兼ねない様子である。
波間に見え隠れする灯りが野島浦らしいが、先刻から一向に近
くならない。
しかし、夜も白み始める頃には風もどうにか収まり、無事に野島浦
に着く事が出来た。
男は万蔵に厚く礼を述べると、足早に立ち去った。
街道を遠ざかって行く男の後姿に向かって、
「見事本懐を遂げて下せいよ」
と、万蔵は叫んだ。
男は一瞬足を止めたが、再び歩み始めた。
三月三日、大雪の桜田門外で井伊大老は水戸の浪士達に殺害された。
十八人の浪士の中に広岡の名を見ることが出来る。
完
作品名:『幕末異譚 第一話 押送船』 作家名:南 総太郎