巡礼
やがて、女は盆の上に茶と書類のようなものを載せて戻ってきた。
「この家と土地の権利書です」
「は……?」
甘い逢瀬を打ち切る言葉の、ひどく現実的な響きに面食らう。意味が呑み込めない私を見る目は、憐れみの色がいよいよ濃い。
「もし、また戻って来るようなら、これを渡すようにと言付かっていました」
売るも住むもお好きになさってください――その言葉は私の中であの人の声にすり替わった――とのことです、と女は告げたきり、黙り込んだ。私にその表情を窺う余裕はなかった。
―――まだあなたがいるこの屋敷を、私に譲る、と。
―――それは、それは、つまり、
やっとあの遺言の意味を理解し、私の胸は歓喜に震えた。
あの人は、許してくれたのだ。死者を想い続ける無意味を。この人生全てを、死者に捧げる生者の傲慢を。
あれほどまでに、己の命を、人生を大事にすることを説いたあの人だったのに、私は、あの人の信条を曲げさせたのだ。
それは私の性質を熟知したゆえの結論だったのか、それとも。
その中に少しでも、あの人の我儘が含まれていたら。私に想われていたいという望みが、あなたの中にもあるのなら。そうだとしたら、私はこの一生を、価値のあるものだと思える。
「わかりました」
あの人がいなくなってから初めて、私は、微笑んだ。
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それから、私はあの人の屋敷に住むことにした。
それまで管理を任されていたらしい元家政婦には暇を取らせた。埃をかぶらずにすんだのには感謝するが、掃除も過ぎればあの人を消してしまう。
つかの間の代用品にすがる日々は終わった。私は、あの人の影を探さなくてもいい。あなたは、ここにいる。私の中のあなたと、この家のあなた。欠けたものが合わさって、あなたはまた私に会いに来てくれたのだ。
「約束、守ってくれましたね」
あと十日もすれば雪は解け、梅が咲き始めるだろう。その香を、私はあの人の代わりにここで嗅ぐのだろう。そして、今年も見事な咲きぶりですねと、私はあの人に語りかけるのだ。季節が巡り、花が咲いて枯れ、世界がまた白に沈んでも、ずっと。私はそうやって生きていく。あなたと、共に。
往日、あの人がもたれた柱を撫でながら想う。
私は、幸せだ。