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巡礼

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私の大切な人が死んだ。
 呼吸さえ儘ならない唇が最後に紡いだのは、また会いましょう、という不確かで感傷的な迷信だった。
 生まれ変わりなど馬鹿馬鹿しい。
 死んだら、それっきりだ。それを解らないほどあなたは愚かでも感傷的でもなかったはずだ。
 しかし、それが遺言ならば、私は探しに行かなければならない。
 ただ待つことなど、出来るわけがないのだから。

**

 あの人は雪が好きだった。
 普段は落ち付いた人なのに、雪がちらと舞っただけで子供のように目を輝かせる。積もろうものなら、外に出ると言ってきかなかった。あの人を説き伏せるのは毎度骨が折れる。あの上に寝転んでみたい、と上気した頬で言われた時には頭を抱えた。そんな身体で、死ぬつもりかと怒ると、死ぬ前に一度はやってみたいことだと微笑まれたのを思い出す。私は、そんな望みさえも叶えてやれなかった。
 あなたが生まれ変わるなら、今度こそ雪の上に佇むだろうか。
 足跡を残した白い道のりを見つめる。いつの間に降り積もったのだろう。あの人がいなくなってから、時の流れが曖昧だ。
 ふと、足元を見やる。
 雪に埋もれるように、白い花が咲いていた。
 目を凝らしてみなければわからなかっただろう。それほどに、花は雪の色と同質だった。
 名もなき野花である。華やかさも、一心に注がれる愛もないが、凍える季節に花を咲かすほどの生命力が宿っている。あの人にはなかった、それが。
 あの人が望んだものを、その花は持っているように思えた。
 ―――望みを、叶えたんですか。
 ―――もう十分でしょう。さあ、私と行きましょう。
 私は、健気な花をその根ごと抜いた。また会おうと言ったのはそちらなのだから、その権利はあるはずだ。片時の逢瀬で満足するわけがないと、あなたも知っているでしょう。私は、そういう性だ。
 泥に塗れた手で、変わり果てた姿を抱きしめる。さあ、あなたをどうしようか。鉢に根付かせて愛でるか、いっそのこと、喰らってしまおうか。
 迷っているうちに、土から離された野花は手のうちで枯れてしまった。
 次のあなたを探さなくてはならない。

**

 あれからどれくらい経ったのだろうか。
 皿の上にあるものを見て、霞の中にいた私は心を取り戻した。
 それはどこかの食堂だった。古びているが手入れの行き届いている、どこかあの人の住処を思い起こさせる場所である。
 ああ、そうだ。この雰囲気が気に入って、行きつけにしていたのだった。霞の中にいた頃の記憶を、やっと自覚する。そして私はもう一度、私の心を取り戻したものに視線を移した。
 皿の上には、一匹の魚が横たわっている。
 何故だか私には、それがあの人のように思えたのだ。
 あの人の死体のように、思えたのだ。
 どろりとした目はこちらを映さず、ただ虚無を描いている。そういうところも、そっくりだった。箸でその身を割り、中身をのぞかせる。血の通わない白は、あの人の肌の色だ。陽の下に行けなくなり、寝付いてから、だんだん、だんだんと皮膚の下に流れる薔薇色が消えていったあの人の。
 私は迷わなかった。箸で摘んだ身を、口に運ぶ。
 ―――甘い。
 気づけば皿には小骨一つ残っていなかった。鉄錆の味が舌に絡む。骨を咀嚼した時に傷がついたのだろう。湯のみに手を伸ばし、茶を口に含んだ。
 これで私とあの人は一つになれたのだろうか。ずっと一緒にいられるのだろうか。
 そんなわけがない。そんなのは、幻想だ。
 この身に取り込んだとしても、それは栄養を吸収され循環しやがては排出される。知らないうちに、またいなくなってしまう。そもそも一つになったらもう会えなくなる。二人ではないのだから。私の行為はすべて無意味だ。何がしたいのかもよくわからない。ただ、またあの人に会いたい。ああ、また心が霞の中に沈んでいくのを感じる。次に会えるのはいつだろうか。
 次は生きている姿を見たい。

**

 その日は星が綺麗に見える夜だった。空気が冷え、澄んでいるせいだろう。肌に刺さる冷たい空気の感触は、頭の中の霞も追い払ってくれた。
 あれから、いくつものあの人に会ってきた。いくつものあの人を失ってきた。私は、これを、あと何度繰り返すのだろう。いつになったら、あの人は約束を守るのだろう。
 ふと足を止め、人は死ぬと星になるのだと、昔、子供だった頃に言われたのを思い出す。悲しみを和らげるために紡がれる、優しさに包まれたおとぎ話の類だ。
 途方に暮れた気持ちで、頭上に輝く綺羅星を見上げる。
 ―――もしかしてあなたは、最初からそこにいたのですか?
 ―――そこで、私を見守っていたのですか?
 満天の星空の、どこにあの人がいるのかはわからない。それでも手を伸ばす。信じれば、このおとぎ話を信じれば、私は救われるのだろうか?ふらりと伸ばされた手は、何もつかめず空を切る。
 違う。違う。
 あれはあの人ではない。あなたではない。私は、私は―――ただ、適当なものにあの人を重ねて、再会の幻想に浸っていただけなのだ。思い出せ。自覚しろ。こんなの、ただの妄想だ。あの人の遺言をよすがにした、私の、恥ずかしい独り遊びだ。
 それに、たとえ輪廻転生だの生まれ変わりだのが現実に起こりうるのだとしても、それはあの人ではなく、あの人を辞めた何者かである。あの人は、もうどこにもいないのだ。あの人は嘘をついたのだ。また会いましょうと耳ざわりの良い希望を口にして、私を延命させたのだ。人は希望があるうちは命を投げ捨てることができない。だから、あなたは。
 私はどうすればいいのだろう。
 あの人ともう会えないのなら、もう生きていたくない。それでもあの人は私の生を望んでいる。私はどうすればいい。あの人がいないのに、あなたがいないのに、あなたは―――あなたは、今、どこにいるんですか。
 止まっていた足が、再び歩みを始める。
 帰ろう、あの人のいた家に。

**

 あの人の家は、まだそのままで残っていた。
 あの人は裕福な家の出だと言っていた。きっと、あの人のことを思い出すよすがとして貸家にも売家にもせず残しているのだろう。そんな愛情があるのなら、生きているうちに見舞いにでも来ればよかったのだ。あの人の元に通い続けたのは十年ほどだったが、親戚や家族の顔など見たこともない。あの家であの人以外に見たのは、週に3回ほど来る通いの家政婦くらいだ。
「……お久しぶりです」
 玄関先では、さっき回想したばかりの家政婦の女が枯れ葉を掃いていた。女は目を丸くして呆けていたが、手から箒が滑る感触にハッと焦点を取り戻す。
「戻って……来られたんですね」
 何故かその顔には、不信や戸惑いよりも憐れみに似た感情が表れていた。どうぞ上がってくださいと促され、懐かしい家に足を踏み入れる。
 ああ、ここはあの人を支えて歩いた廊下だ。飴色の木目を見ていると、儚い重みが腕に蘇る。また会えた気がして、胸が熱くなった。
 茶の間に通され、ここであの人と語らった思い出を回想する。どのような声をしていたか、どのような調子で話したか。机や畳を撫でていると、いつもより明瞭にあの人の言葉が再生された。ここはあの人の気配で満ちている。まだ、あの人が『居る』。
作品名:巡礼 作家名:白架