THE TOWER
誰もいない、何もない、まるで世界の果てのような荒野。
そこには、今にも崩れてしまいそうな古い古い塔が一つ、ぽつんと立っていた。
この塔には、一人の少女が幽閉されている。
**
少女の他に、塔には二人の番人が住んでいて、彼女の世話と見張りをしていた。
「ねえ、番人さん。お話を聞かせて」
少女は決まって昼にそう声をかける。もう一人の番人は口がきけないから、『お話』といえばこの黒髪の青年が扉を開けるのだ。
「ねえ、今日は何をお話してくれるの?」
軋む木の扉を開け、番人の青年が中に入ると、少女はそう言って微笑んだ。赤いびろうどの椅子に背を預け、胸にさげたロザリオを撫でる姿は、まるで宗教画の聖女のよう。何度見ても、彼はその微笑に見とれてしまうのだ。
彼女のための檻は、番人の部屋とは違い、贅沢な調度品に囲まれている。彼女の素性は知らされていないが、きっと元は高貴な身分の姫だったのだろう。なのに何故こんなところに、と少女の無邪気な笑みを見るたびに、青年は胸を痛めるのだった。
「今日はそうですね、気球に乗って旅をしている兄と妹の話をしましょうか」
そう告げると、少女はパッと瞳を輝かせる。ガラス玉のように虚ろな瞳が、きらめくサファイアに変わるこの瞬間が、番人にとって一番幸せな瞬間だった。
「素敵!早く早く、聞かせてちょうだい」
「はい」
急かす少女に笑い返し、昔々、あるところに――という決まり文句で彼は語りだす。
もう子供という年齢ではないのに『お話』を望む彼女は、冒険譚、特に兄妹の話が好きなのだ。いつか「私には、お兄様がいるの」と言っていたのを思い出す。その時の表情はとても悲しそうで、愛しそうで。それ以上は、何も聞けなかった。
**
「ねえ番人さん、私音楽が聞きたいわ」
少女は決まって夜にそう声をかける。口がきけない番人はフルートを吹けたので、夜に扉を開けるのはいつもこの青年だった。
話さない彼が音をたてるのは、この時だけである。扉を開ける音と、フルートの旋律。彼は本当に静かな男で、食事中さえ物音一つたてないのだ。
黒髪の番人は自分の相方を見送ると、閉じられた扉にもたれかかる。彼のフルートを楽しみにしているのは、少女だけではないのだ。
しばらくすると、どこか懐かしい調べがかすかに聞こえてくる。儚い月光を思わせる、繊細な音色。フルートの奏でるメロディは、荒野の夜に静かに寄り添った。
耳によくなじんだその音色に、穏やかな気持ちで青年はゆっくりと目を閉じ―――扉の向こうにいる少女のことを想う。
ここは確かに寂しい場所だが、彼の心は満ち足りていた。
**
そして塔にまた朝は訪れる。窓の向こうに白いものを見つけた黒髪の番人は、今日は雪の話をしよう、と決めた。
少女の朝食を乗せた盆を片手に持ち直し、彼は扉の鍵を開ける。
「入ります」
返事はなかった。まだ寝ているのだろうかと思い、中に入る。少女は寝台に横たわっていた。扉の音に反応して、青の瞳がこちらに向けられる。血の気の引いた頬に、淡い金色の髪がまとわりついた。
「置いておいて」
番人が声をかける前に、か細い声がそれを制する。
「ですが……」
「必要になったら、呼ぶから」
そう言われてしまっては、もう何も言えない。彼は塔の番人であり、彼女の使用人でもある身分なのだ。青年はしばらく心配そうに少女を見つめると、一礼して退室する。
少女がそれを見ることはなかった。
**
昼食の時間になっても、少女はそのままだった。テーブルに置かれたスープとパンは、すっかり冷たくなっている。
「大丈夫ですか?」
朝食を片付け、代わりのものを置きながら青年は尋ねた。今までも彼女が体調を崩すことはあったが、今回はどこか様子がおかしい。
「今日は、もう一人の番人さんは来ないのね」
問いには答えず、心ここにあらずといった表情で少女は返した。基本的に食事は交代で運んでいるのだが、片方が忙しい時は肩代わりすることが多い。だが、今まで少女はそんなことを気にしたことはなかった。
「あいつは今朝から、暖炉の掃除をしていますよ」
これから急に冷え込むだろうから、そろそろ自分達の分も手入れしなければならないと思ったのだろう。手伝おうかと言ったら、手で制された。扉を指差され、自分の役割を思い出し恥ずかしくなったのを覚えている。看守が番を忘れてどうする、本末転倒だ。
「今日は雪が降りましたからねぇ。これから寒くなりますよ」
だから、少女のこの様子は体調を崩したためだろうと番人は思っている。
「……そう」
気のないそぶりで少女はうなずいた。それきり、彼女は黙り込む。苛々と、ロザリオの鎖を強く引いた。まるで、こんなものいらない、とでも言うように。
「ねえ」
やっと口を開いたかと思うと、また唇を引き結ぶ。
「もし、大切な人に置いていかれたら、あなたは、どうする?」
その声は震えているわけでも、掠れているわけでもない。綺麗に澄んだ、声だった。悲しいほどに、無垢で痛々しい声だった。
「……寂しくて、死んじゃうかもしれませんね」
脳裏に、荒野で一人きりになった自分の姿が浮かぶ。気づけばそんな、破滅的な言葉を漏らしていた。
「……そう」
少女は静かに目を閉じる。
結局、彼女は昼食にも手をつけなかった。
**
やがて荒野の塔は、夜の帳に包まれる。月の光を受け、雪はきらきらと地上に落ちていった。いくつも、いくつも。幻想的な光景を眺めながら、黒髪の番人は、少女へと続く扉に背を預けた。
もう一人の番人は、まだ黙々と掃除を続けている。もう十分綺麗だと言ったが、真面目な顔で同僚は首を振った。今まで気づかなかったが、彼には潔癖症の気があるのだろうか。そういえば、彼の部屋はいつも綺麗に整頓されて―――
「番人さん、番人さん」
―――悲鳴のような声だった。
青年は慌てて鍵を開け、寝台に駆け寄る。
「番人さん、」
「はい」
少女は一瞬、ひどく悲しそうな顔をした。
「……ねえ、私を慰めてよ」
腕をつかまれる。捕らえられる。
―――囚われる。
「今日はそうですね、じゃあ何のお話を、」
「違うわ」
思いがけぬほど強く引かれて、顔が近くなった。白魚のごとき手が青年の顔をなぞり、唇を探り当てる。華奢な人差し指が、下唇のふくらみを撫でた。
触れられたところが、熱い。
「番人さん」
虚ろな瞳の奥には、薄暗い熱があった。すがるように、腕を伸ばされる。
「お願い、私から逃げないで…」
**
目覚めた青年の胸によぎったのは、想い人が腕の中にいる喜びだけではなかった。床に転がる彼女のロザリオに、罪悪感を覚える。閨の中で彼女が叫んだ名前を思い出した―――いや、たとえ『自分』が求められたわけではなくても、彼女の支えになれたなら、それでいい。
彼は体を起こすと、少女を起こさないように身支度をした。
「雪、積もったんだな」
ぼやけた頭を冷やそうと、大窓の鍵を開けてバルコニーに出る。荒野の暗い色彩は、一面の白に変わっていた。対して空は、昨日の鈍色が嘘のように澄み切った青色である。
「ねえ、番人さん」
そこには、今にも崩れてしまいそうな古い古い塔が一つ、ぽつんと立っていた。
この塔には、一人の少女が幽閉されている。
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少女の他に、塔には二人の番人が住んでいて、彼女の世話と見張りをしていた。
「ねえ、番人さん。お話を聞かせて」
少女は決まって昼にそう声をかける。もう一人の番人は口がきけないから、『お話』といえばこの黒髪の青年が扉を開けるのだ。
「ねえ、今日は何をお話してくれるの?」
軋む木の扉を開け、番人の青年が中に入ると、少女はそう言って微笑んだ。赤いびろうどの椅子に背を預け、胸にさげたロザリオを撫でる姿は、まるで宗教画の聖女のよう。何度見ても、彼はその微笑に見とれてしまうのだ。
彼女のための檻は、番人の部屋とは違い、贅沢な調度品に囲まれている。彼女の素性は知らされていないが、きっと元は高貴な身分の姫だったのだろう。なのに何故こんなところに、と少女の無邪気な笑みを見るたびに、青年は胸を痛めるのだった。
「今日はそうですね、気球に乗って旅をしている兄と妹の話をしましょうか」
そう告げると、少女はパッと瞳を輝かせる。ガラス玉のように虚ろな瞳が、きらめくサファイアに変わるこの瞬間が、番人にとって一番幸せな瞬間だった。
「素敵!早く早く、聞かせてちょうだい」
「はい」
急かす少女に笑い返し、昔々、あるところに――という決まり文句で彼は語りだす。
もう子供という年齢ではないのに『お話』を望む彼女は、冒険譚、特に兄妹の話が好きなのだ。いつか「私には、お兄様がいるの」と言っていたのを思い出す。その時の表情はとても悲しそうで、愛しそうで。それ以上は、何も聞けなかった。
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「ねえ番人さん、私音楽が聞きたいわ」
少女は決まって夜にそう声をかける。口がきけない番人はフルートを吹けたので、夜に扉を開けるのはいつもこの青年だった。
話さない彼が音をたてるのは、この時だけである。扉を開ける音と、フルートの旋律。彼は本当に静かな男で、食事中さえ物音一つたてないのだ。
黒髪の番人は自分の相方を見送ると、閉じられた扉にもたれかかる。彼のフルートを楽しみにしているのは、少女だけではないのだ。
しばらくすると、どこか懐かしい調べがかすかに聞こえてくる。儚い月光を思わせる、繊細な音色。フルートの奏でるメロディは、荒野の夜に静かに寄り添った。
耳によくなじんだその音色に、穏やかな気持ちで青年はゆっくりと目を閉じ―――扉の向こうにいる少女のことを想う。
ここは確かに寂しい場所だが、彼の心は満ち足りていた。
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そして塔にまた朝は訪れる。窓の向こうに白いものを見つけた黒髪の番人は、今日は雪の話をしよう、と決めた。
少女の朝食を乗せた盆を片手に持ち直し、彼は扉の鍵を開ける。
「入ります」
返事はなかった。まだ寝ているのだろうかと思い、中に入る。少女は寝台に横たわっていた。扉の音に反応して、青の瞳がこちらに向けられる。血の気の引いた頬に、淡い金色の髪がまとわりついた。
「置いておいて」
番人が声をかける前に、か細い声がそれを制する。
「ですが……」
「必要になったら、呼ぶから」
そう言われてしまっては、もう何も言えない。彼は塔の番人であり、彼女の使用人でもある身分なのだ。青年はしばらく心配そうに少女を見つめると、一礼して退室する。
少女がそれを見ることはなかった。
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昼食の時間になっても、少女はそのままだった。テーブルに置かれたスープとパンは、すっかり冷たくなっている。
「大丈夫ですか?」
朝食を片付け、代わりのものを置きながら青年は尋ねた。今までも彼女が体調を崩すことはあったが、今回はどこか様子がおかしい。
「今日は、もう一人の番人さんは来ないのね」
問いには答えず、心ここにあらずといった表情で少女は返した。基本的に食事は交代で運んでいるのだが、片方が忙しい時は肩代わりすることが多い。だが、今まで少女はそんなことを気にしたことはなかった。
「あいつは今朝から、暖炉の掃除をしていますよ」
これから急に冷え込むだろうから、そろそろ自分達の分も手入れしなければならないと思ったのだろう。手伝おうかと言ったら、手で制された。扉を指差され、自分の役割を思い出し恥ずかしくなったのを覚えている。看守が番を忘れてどうする、本末転倒だ。
「今日は雪が降りましたからねぇ。これから寒くなりますよ」
だから、少女のこの様子は体調を崩したためだろうと番人は思っている。
「……そう」
気のないそぶりで少女はうなずいた。それきり、彼女は黙り込む。苛々と、ロザリオの鎖を強く引いた。まるで、こんなものいらない、とでも言うように。
「ねえ」
やっと口を開いたかと思うと、また唇を引き結ぶ。
「もし、大切な人に置いていかれたら、あなたは、どうする?」
その声は震えているわけでも、掠れているわけでもない。綺麗に澄んだ、声だった。悲しいほどに、無垢で痛々しい声だった。
「……寂しくて、死んじゃうかもしれませんね」
脳裏に、荒野で一人きりになった自分の姿が浮かぶ。気づけばそんな、破滅的な言葉を漏らしていた。
「……そう」
少女は静かに目を閉じる。
結局、彼女は昼食にも手をつけなかった。
**
やがて荒野の塔は、夜の帳に包まれる。月の光を受け、雪はきらきらと地上に落ちていった。いくつも、いくつも。幻想的な光景を眺めながら、黒髪の番人は、少女へと続く扉に背を預けた。
もう一人の番人は、まだ黙々と掃除を続けている。もう十分綺麗だと言ったが、真面目な顔で同僚は首を振った。今まで気づかなかったが、彼には潔癖症の気があるのだろうか。そういえば、彼の部屋はいつも綺麗に整頓されて―――
「番人さん、番人さん」
―――悲鳴のような声だった。
青年は慌てて鍵を開け、寝台に駆け寄る。
「番人さん、」
「はい」
少女は一瞬、ひどく悲しそうな顔をした。
「……ねえ、私を慰めてよ」
腕をつかまれる。捕らえられる。
―――囚われる。
「今日はそうですね、じゃあ何のお話を、」
「違うわ」
思いがけぬほど強く引かれて、顔が近くなった。白魚のごとき手が青年の顔をなぞり、唇を探り当てる。華奢な人差し指が、下唇のふくらみを撫でた。
触れられたところが、熱い。
「番人さん」
虚ろな瞳の奥には、薄暗い熱があった。すがるように、腕を伸ばされる。
「お願い、私から逃げないで…」
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目覚めた青年の胸によぎったのは、想い人が腕の中にいる喜びだけではなかった。床に転がる彼女のロザリオに、罪悪感を覚える。閨の中で彼女が叫んだ名前を思い出した―――いや、たとえ『自分』が求められたわけではなくても、彼女の支えになれたなら、それでいい。
彼は体を起こすと、少女を起こさないように身支度をした。
「雪、積もったんだな」
ぼやけた頭を冷やそうと、大窓の鍵を開けてバルコニーに出る。荒野の暗い色彩は、一面の白に変わっていた。対して空は、昨日の鈍色が嘘のように澄み切った青色である。
「ねえ、番人さん」