空を舞う君は青空を知らない
そのやり取り以来、教育に関してはうまくいくようになっている。しかし、心を塗り潰すにはまだ至らない。それだけは、どんなに言っても、どんなに教育しても、できなかった。
「No.4010、何度言えばわかる。『自分』を捨てろ。それはいらないものなんだ」
食餌を抜いて、もう3日以上経っている。そろそろ【Prifenomia】が生を保てなくなってくる時期だ。飼育員が【Prifenomia】を死なせるのは重罪である。処分はおそらく廃棄だ。だが、もう、それでも構わなかった。命を賭けてでも、私は彼女を矯正しなければならない。
「……無理だよ」
かすれた声で、少女の形をした生き物は初めて「無理だ」「嫌だ」の後に言葉を続ける。
「なかったことになんてできない。それは、サカシタさんだって同じでしょ?」
「何を……」
同じとはなんだ。私は、お前のような『人間』にはなれない。
「だってずっと、苦しそうな顔してる」
立つ力もなく、横たわることしかできないはずの個体は、弱弱しく私の方へ手を伸ばす。思わず近づくと、優しく頬を撫でられた。
「イーミヤがいなくなってから、それから、私の名前を呼ばなくなってから」
居なくなってから初めて聞いた名前に、びくりと震える。気づいていたのだ。それでも、何も言わなかったのは―――私のことを、
「心があるから、苦しいんでしょ?」
反射的に手を振り払う。
感情はない。共感はない。痛みはない。心はない。私もそうでなくてはならない、はずだったのに。
「それがわかっているのなら……それなら、心なんてない方が、幸せだろう!」
振り絞るように、言葉を吐き出す。その響きは、決して砕けない壁を殴り続けたかつての同僚に似ていた。
……きっと、私にも『それ』があるのだろう。
だからこそ、苦しい。だからこそ、消えてほしい。だからこそ――私は彼女を『教育』しようとしたのだろうか。それならば、私のこの行為も、ムラカミのそれと変わらないのかもしれない。
「ううん。心があるから、嬉しいんだよ」
消え入りそうな、それでも聞き逃せない響きを持って、白と薄桃の髪を持った【Prifenomia】は真逆のことを言う。
「サカシタさん、いつも言ってるよね。私たちは人間のために造られたから、人間に愛されることが幸せなんだって」
人間の望むモノになって、人間に愛される。
人間と愛し、愛される。
「そうだ。それだけが、お前たちが唯一―――」
人間に造られたモノの幸せは、それだけだ。
それが私に与えられた飼育員としての信念であり、唯一の希望である。
「……『私』がいないなら、幸せも感じないよ」
涙を流していないのが不思議なほど、その声は揺れていた。それでも、私は揺らぐわけにはいかない。
「それでも、不幸にはならない」
そうでなければ、
「不幸じゃなきゃ幸せなの?」
そうでなければ、
「ああ」
今まで送り出してきた【Prifenomia】達は――
「違う」
瀕死のはずの個体は、強く強く私の腕を握りしめた。その生命の強さに息をのむ。私は耳を塞ぎたかった。それと同時に、望んでもいた。
「それは――サカシタさんが幸せなだけだよ」
ひび割れた唇が紡ぐ、
「私は、」
私の希望を、私のエゴを、打ち砕く言葉を。
「私は、幸せじゃない」
人間に愛されることこそが亜人にとって唯一の幸せ。そう何度も言い聞かせたけれど、本当にそれが幸せなのか、私にはわからなかった。人間に愛されたことなど、なかったから。
だから、肯定してほしかった。
だから、否定してほしかった。
それが本当に『幸せ』なのか、知りたかった。
もしそれが『違う』なら、教えてほしかった。
「では……どうすれば、お前は幸せになれるんだ」
【Prifenomia】の――いや、彼女自身の幸せを。彼女の『心』が望む、彼女だけの幸せを。
彼女のためではない。
私は、救われたかった。
彼女を幸せにすることで、無視できないほどに痛みを主張するこの『心』を、救いたかった。
「簡単だよ」
森で遊ぶ子供の笑みで、彼女は答える。
そして、馬鹿みたいに簡単な―――愛の表現を望んだ。
「抱きしめて」
折れそうな腕を伸ばし、望む。
「名前を呼んで」
まるで、人間の娘が望むような、
「キスをして」
まるで、人間の男がするような、愛のやり取りを。
それは人間がするものだ。人間だけに許された、『愛』の、『感情』の、表現だ。
私のような、私たちのような、人の形に似せただけの、人間のための道具同士がするものではない。
私の理性はそう告げる。今まで私を構成し、制御し、行動の指針を示し続けた、我々【Fortissim】に刻み込まれた教育は、正しい答えを告げている。
「シーイー」
それでも私は、彼女の望みを叶えたかった。
脆すぎる体を、壊れないようにそっと抱きしめる。
「サカシタさん」
それはかすかな囁きだったが、この距離を泳ぐのには十分だった。
泣いているのか、小さな頭は熱を持ったように濡れた気配がする。
シーイーは、何度読ませても酷い出来だったテキストの台詞を、人間に向けるはずだった台詞を口にした。
「私、サカシタさんのことが、好きよ」
それは、信じられないくらい良い出来だった。
いや―――違う。
それは、ただの、真実だった。
彼女の心だった。
「シーイー」
その鮮やかな感情に足るほどのものを、私は持っていない。だからせめて、名前を呼ぶ。
彼女の鮮やかさに打たれ、その心に報いたいという、それだけが私のすべてになった。
人間の男がするように、人間の娘にするように、私は、彼女の唇に唇を寄せる。
触れた温度は、哀しいくらい、温かくて。
私たちは、どうしようもないほど――生きていた。
もしかしたら、人間と同じようにと錯覚するくらいに。
*
結局、彼女の望みを叶えても、私にはわからなかった。
『幸せ』とはなんなのか。
何が『幸せ』なのか。
『心』はいらないものなのか。
『心』とは、何なのか。
私たちには近いうち、確実に別れが訪れるだろう。
飼育員と【Prifenomia】にとって、それは当たり前のことだ。
それでも構わないとシーイーは言う。
この『幸せ』があれば、何があっても生きていけると。
私は私のために、『幸せに』生きると。
その言葉を聞いて、私は、私の定義する幸せなど、所詮机上の空論でしかないことを悟った。
だから私も、彼女の望みを叶えたいと願った心を、後悔しない。
あの時、私たちは確かに『幸せ』に触れたのだから。
私は彼女の『幸せ』を信じることに決めた。
たとえ傷つけられても、彼女は鮮やかさを失うことはない。
初めて外に出て、ここに運ばれた時に見た、
―――あの青空のように。
作品名:空を舞う君は青空を知らない 作家名:白架