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毒虫のさみだれ

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 ただそれだけだ──自分と異なる何かを見てみたかっただけだ。
 ──その点では、失望でした。
 突き放すような口調で言い、五月雨は伸ばしていた腕をだらりと体の脇へと垂れ下げた。ゆっくりと立ち上がり、スカートの裾を軽く手で払う。埃が気になる程の潔癖症でもなかったが、不快な空気だけはたっぷりと布地に染み込んでいる気がした。石田郡司という男の吐き出す息が、身に纏う体臭が、濃厚な敗北者の気配が、繊維の隙間にまで浸透している。
「あなたは──臭い、虫です」
 綺麗な羽根があるわけでも、立派な角があるわけでもない。
 醜く這いずり逃げ回るだけの──悪臭を放つ、害虫だ。
 ならば──死ぬことはやはり、正しい選択だと思えた。
「死んだ方がいいのだと思いますよ。石田さんの話を聞く限り、一番簡単で正しい選択は死ぬことだと思います。こんな虫の私をすら失望させるぐらいですから、周りのまともな人達がどれだけあなたに失望してきたのか、想像もできないぐらいです」
 失敗も転落も、五月雨はこれまでの決して長くはない人生の中で、嫌と言う程味わっている。
 もっと希望に満ちて夢に溢れた、そんな話を期待していたのだけど──期待は見事に外れた。当然だろうと思う。虫が人並みに何かを期待する方が間違っていたのだ。
 ──退屈だ。
 ひどく鬱屈とした心地になる。
「もう一度言います。もううんざりなんですよ──虫が一匹死んだところで、どうせ何にも変わりはしないんですから。大丈夫です。奥さんも娘さんも、それはあなたが死んだことを聞けば一ヶ月かそこらは悲しんだり、罪悪感に悩まされたりするかもしれませんが……どうせすぐに忘れます。そうひどいことにはなりませんから。ご安心下さい」
 ──安心して、
 ──死んでいいんです。
「人は死んじゃあいけません。でも虫なら大丈夫。僕達みたいな虫が何か一つでも人間に勝っている部分があるとしたら、簡単に替えが利くってことなんです──死んでも何の影響もないってことなんですよ。すぐにみんな忘れちゃいますから」
「すぐに──忘れられるのか。俺は……誰の記憶にも、残らないで」
「残りません。残りようがない。人間が賢く強い生き物であるためには、色々余計なものを取り除いていかなければいけないんです──金を稼ごうと思ったら誰かを蹴落とす必要があるし、勉強していい大学に入ったら確実に一人分の席は減る。でも経済や学識に倫理や善意を持ち込んではいけないんですよ。本来それらは区別されるべきものです。人間はそんな余計な部分に気を遣って、罪悪感なんてもので歩みを止めないように──忘れていくんです」
 ──様々なものを。
 二度と取り返しのつかないものを──忘れていく。
 落ちこぼれたものや滑り落ちたもの、失敗や敗北を削ぎ落としていく。
 勝利し続けることで、ようやく人間は人間でいられるのだ。
「石田さんは、自分が優秀だと言う。早稲田を出て、大手ゼネコンに入社して、部下をこき使い上司にこびへつらって、会社の業績に多少なりと関与してきた優秀な人間だと言う──けれど、それは全部勘違いです。本当に優秀な人間は、いちいち他人に自分の優秀さをひけらかすような真似はしませんよ。する必要がない。いいですか石田さん、本当に優秀な人間はね」
 ──みんながその人は優秀なのだと知っているのです。
 能力や学歴をひけらかす必要などまるでない。
 優秀であることが当然として──周囲に、認識されている。
「石田さん。ねえ、死なないんですか? 折角そんな縄まで買ったんです。勿体ないでしょう、ここまで来たんだから死んでおかないと」
「死んだ方が……いいのか? 俺は──もう」
「石田さん。違います。あなたはもう、とっくの昔に死んでいるんです──」
 ──死人の相手なんてうんざりです。
 冷酷な眼差しを男に注ぎ、その首元を指さして、
「──何故あなたの首には縄の痕があるのですか」
 次いで、男の顔を指し示し、
「──何故あなたの顔は赤黒く鬱血しているのですか」
 古びた背広を見遣り、
「──何故あなたの服は失禁の跡で汚れているのですか」
 五月雨は──最後に小さく、ほんの微かにだけ頷いてみせた。
 ──大丈夫。
 ──あなたはもう──。
「──苦しくはないんですから」
「俺は──もう、そうだったのか。そうか……もうとっくの昔に、俺は」
「ええ。僕が見たときには既に──」

 ──あなたは首を吊り終えていたのです──。
 
 男の死体が──がくんと、糸を切られた人形のように崩れ落ちた。

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作品名:毒虫のさみだれ 作家名:名寄椋司