電車は気怠く走る
何かに突き動かされるようにして、洋子は立ち上がり、その勢いで歩き出した。今まさに財布を手にした青年の腕をつかむ。逃げられぬよう、ありったけの力を込めて。青年は弾かれたように洋子を見上げた。その獣の目はやはり恐ろしく、洋子は思わず背中に回したもう一方の手も強く握り締めた。
「……やめて」
長く黙っていた洋子の口が、言葉をつむぎ始める。
「やめて、下さい」
洋子は思い出したのだ。会社の偽装工作で自分が感じていた罪悪感の強さを、同僚が同じ罪悪感を持っているとこぼしたことを、偽装が始まってから、部長の笑顔を見なくなったことを。
青年の目が、獣のものから人間のものへと戻っていく。そこにいたのは、気の弱そうな一人の人間に過ぎなかった。
うつむいていた乗客たちが、ゆっくりと顔を上げる。彼らは感じたのだ。この瞬間に、何かが大きく変わったことを。
電車は気怠く走っていた。