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電車は気怠く走る

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電車は気怠く走る。

 決められたレールをたどり、車体は右へ左へ揺れながら走る。点在する乗客たちは、その揺れに身を預け、それぞれ眠りの世界へと旅立ってしまっている。
 そんな最終の下り電車に、洋子は乗っていた。灰色のスーツに身を包み、薄く化粧をしたその顔にも、他の乗客と同じような疲労が伺える。洋子は電車に揺られながら、向かいの車窓に映った自分の顔を見ていた。外は真っ暗で、窓に映った洋子の上を、カラフルな夜景が通り過ぎていった。
 なんて情けない顔をしているんだろう。洋子は自分の顔を見て思った。入社したばかりの頃の洋子は、仕事へのやる気に満ち溢れ、今よりもずっと良い顔をしていた。その頃の洋子はまだ、自分の勤める会社が、どんな会社になっていくのか知るよしもなかったのだ。洋子が入社して三年目、ようやく仕事に慣れてきた頃に、会社で商品の偽装が始まった。会社が第一に求めるものは、消費者からの信頼や、商品の安全性から、会社の利益へと変わっていったのだ。経済状況が悪化していく今、“それ”(社内では内密に偽装を行うため、偽装のことを“それ”と呼んでいた。)をやらないと会社がもたないのだと、社長はいつでも同じ言い訳を繰り返している。社員の口封じのためか、“それ”をするようになってから、それまで毎月下がっていた社員の給料が、ぴたりと下がらなくなった。口封じが効いているらしく、社内で行われている“それ”は未だ外部に漏れ出していない。
 洋子は店頭で自分の会社の商品を見かけるたびに、酷い罪悪感にさいなまれた。しかし、洋子はどうすることも出来なかった。もし洋子が“それ”を漏らしてしまったなら、洋子は確実に首を切られてしまう。最悪の場合、会社が潰れてしまうことだって有り得る。洋子が今勤めている会社は、洋子が何ヶ月にも渡って何十社も受けた就職試験の中で、唯一合格出来た会社だった。その会社で働けなくなったなら、また職に就くことが出来るのだろうかと、洋子は不安を感じていた。今の会社が、洋子にとって唯一の居場所だった。

 電車は気怠く走る。

 短い車内アナウンスが流れた後、電車はゆるゆると速度を落とし、悲鳴を上げてつんのめるように停車した。空気の抜ける音と共に重いドアが開くと、ギターケースを背負った青年が一人、電車に乗り込んできた。何かを酷く思い詰めているようで、まるで生気のない顔だ。青年は辺りを見回した後、適当な席に腰を下ろした。洋子は青年から目を離し、再び向かいの車窓に視線を戻した。

 洋子はふと、宴会のたびに部長がギターを弾いていたことを思い出した。部長はとても陽気な人で、一昨年の忘年会では、ギターを使ったお笑い芸人の真似をして、大いに笑いを取っていたものだ。あの頃はまだ、社員たちの雰囲気は今と比べて和やかだった。しかし今は違う。社内の空気が変わったのは、“それ”が始まってからだ。社員たちは皆“それ”を外部に漏らすまいと神経を尖らせ、互いに疑心暗鬼になっている。
 “それ”は洋子だけの問題ではなく、会社全体の問題なのだ。会社は運命共同体だ。もし洋子が半端な正義感で軽はずみな行動に出て、会社が潰れてしまったなら、部長や仲の良い同僚たち、人の良い後輩たちなど、様々な人の生活を壊してしまうことになるだろう。洋子が“それ”に酷い罪悪感を感じていても、今まで世話になった人々に恩を仇で返すようなことは出来ない。“それ”については大人しく従っておいた方が良いのだろう、と洋子は結論づけることにした。このまま“それ”を押し通していれば、洋子も他の社員も、職を失うことはないのだ。“それ”の黙認が正しい道なのだと、洋子は自分に言い聞かせた。吐き気がした。

 洋子が下車する駅まではまだ遠い。寝てしまおう、と洋子は思った。“それ”による罪悪感と自分の立場によるジレンマ、社内の張り詰めた雰囲気に、洋子は精神的に参っていた。バッグを抱え直し、うつむいて目を閉じる。洋子が眠りの世界へ旅立つのに、そう時間は掛からなかった。

 電車は気怠く走る。

 ふとした拍子に、洋子は目を覚ました。腕時計を見ても、まだ目的の駅に着く時間ではない。もう一度寝ようとしたが、その前に何気なく顔を上げた。そして洋子は、先程まで視界の端に座っていたギター青年が、遠くにいる老婦人の隣へ移動していることに気付いた。今車内はがらがらに空いているので、座り直す必要はないはずだ。不審に思った洋子は、青年を観察してみた。青年の様子は明らかにおかしい。青年は、隣で穏やかに眠る老婦人を、まるで睨むような目で見ていたのだ。洋子は遠目から、老婦人の横顔と、その向こうにいる青年の顔を見ることが出来た。青年は老婦人に集中しているため、洋子に見られていることに気付いていない。
 やがて青年の鋭い視線は、老婦人から、老婦人の傍らに置いてあったバッグへ移った。もう一度老婦人を睨む。そうして何度か、青年の視線が老婦人とバッグの間を往復した。往復するたびに、その速度は増していく。洋子は胸騒ぎがした。背中に冷や汗が滲む。
 おもむろに青年の片手が持ち上がり、その指先が老婦人のバッグに触れる。指先がもぞもぞと動いて、カバンの口が開いた。
 洋子はまるで接着剤で貼り付けられたように、そこから動けなかった。今自分が犯罪現場にいると分かっていても、青年の行動をただ見ていることしか出来なかった。青年の目は、もはや人間のものではなかった。獲物を貪欲に狙う獣の目だ。バッグの中を漁る微かな音が、洋子の頭の中を支配する。
 助けを求めるように、洋子は車内を見回した。点在する乗客は、皆うつむいて、眠ってしまっている。――と、ドア付近に座っていたおばさんが、僅かに顔を上げた。その視線は、しっかりと青年を捉えている。寝起きのようなしょぼついた目ではなかった。今まで寝ているふりをしていたのだ。洋子がもう一度乗客たちを見回すと、洋子は乗客たちのうつむき方がどこか不自然であることに気付いた。皆、起きているのだ。起きていて、青年の行為から目を背けるようにうつむいているのだ。
 洋子はもう一度、青年に目をやった。バッグを漁りながら、獣の目は未だに老婦人とバッグの間を行き来している。獣の目は鋭く光っていて、洋子は恐怖で目を逸らした。今あの青年に近づいたなら、何をされるか分からない。洋子は自分の抱えている荷物を両手で抱きしめた。うつむいて、そしてきつく目を閉じる。

 無機質な車内アナウンスが流れる。間もなく停車駅に着くことを告げている。恐らく青年は、そこで下車して逃げるつもりだ。

 まぶたの裏の黒い世界で、洋子はこの状況にデジャヴを感じていた。この状況は、まるで今の洋子の会社のようだった。“それ”を行う会社と、“それ”を黙認する洋子や社員たち。この車内でも、洋子や乗客たちは、青年の行動を見て見ぬふりをしている。黙認していれば、見ないふりをすれば、自分や自分の生活は安全である。会社の場合は、それに加えて仲間の生活の安全も守れるのだ。
 でも。と、洋子は思い直す。
 ――こんな安全で、本当にいいの?

 徐行していた電車が、悲鳴を上げて停車する。
作品名:電車は気怠く走る 作家名:いずみ